AREA 中伊豆エリア

対象市町

  • 伊豆市
  • 伊豆の国市

中伊豆エリアの歴史絵巻の旅へ

  • 愛童将軍地蔵尊
    関連人物 源頼家
    営業時間
    定休日
    中伊豆エリア 歴史・文化資源
    (アイドウショウグンジゾウソン)
    修禅寺に幽閉されていた鎌倉二代将軍・源頼家が非業の死を遂げたことを知った地元の人々によって建てられた笠冠地蔵。 元は月見ヶ丘の中腹にありましたが、昭和36年に道路拡張工事で山の一部が削られたため、修善寺橋の西北のたもとに移されました。 幽閉されていたころの頼家は、修禅寺の山を下り、狩野川のほとりの月見ヶ丘にのぼって月を眺めてその憂さを晴らし、また里の子どもを集め共に遊びながら、鎌倉に残したわが息子・一幡に思いを馳せていたといいます。 23歳の若さで無残に暗殺されたことを知った里の人たちはとても悲しみ、浄財を集めて月見ヶ丘に地蔵を建立しました。 源頼家は、里の子ども達を大変かわいがった将軍であったので『愛童将軍地蔵』と呼ばれています。
  • 安達藤九郎盛長の墓
    関連人物 安達盛長
    営業時間
    定休日
    中伊豆エリア 歴史・文化資源スタンプラリー対象
    (アダチトウクロウモリナガノハカ)
    安達藤九郎盛長は、源頼朝が伊豆の流人となった頃から側近として仕えていた武将で、頼朝の死後、鎌倉二代将軍・源頼家の宿老として十三人の合議制の一人になり幕政に参画しましたが、翌年66歳で死去しています。
    妻は頼朝の乳母・比丘尼の娘・丹後の局、娘・亀御前は、頼朝の異母弟・源範頼の妻であったため、この地に墓があると言われています。
  • 加藤景廉一族の墓
    関連人物 加藤景廉
    営業時間
    定休日
    中伊豆エリア 歴史・文化資源
    (カトウカゲカドイチゾクノハカ)
    加藤景廉は、平安末期から鎌倉時代初期の武将です。藤原利仁の流れを汲む加藤景員の子で、元々は伊勢の国を本拠としていましたが、源頼朝が源氏旗揚げの際、兄の光員とともに伊豆に下り、狩野茂光(かのもちみつ)らの協力を得て土着勢力となりました。 治承4年(1180)に源頼朝が平氏打倒のため挙兵するといち早く参じて平氏の目代・山木兼隆を討ち取る大功を立てたと言われています。
    以後、鎌倉幕府創設に献身努力し、頼朝から遠州浅羽、美濃遠山、伊豆牧之郷等の所領を与えられ、岐阜県遠山地方の要衝岩村(恵那市岩村町)に城を築きました。後に嫡男の遠山景朝に城を譲り、牧之郷に帰ると、源平の合戦で亡くなった人達の精霊供養のため、読経三昧に明け暮れたと言われています。 承久3年(1221)の承久の乱において、宿老の一人として鎌倉に留まりましたが、8月3日に没しました。
  • 願成就院
    関連人物 北条時政,北条義時,北条泰時
    営業時間 10:00~16:00
    定休日 火曜日、水曜日
    中伊豆エリア 歴史・文化資源スタンプラリー対象
    (ガンジョウジュイン)
    創建は、鎌倉時代初頭の文治5年(1189)。
    源氏再興の旗揚げをし、鎌倉幕府を開いた源頼朝の奥州藤原氏征討の戦勝を祈願して、北条時政が建立しました。
    歴史書「吾妻鏡」には、時政が建立してから三代執権北条泰時の頃までの様子が記されています。
    時政が建立した大御堂と南塔、二代執権北条義時が亡父時政公供養として建立した南新御堂、三代執権北条泰時による北條御堂と北塔の建立など、堂塔伽藍の営作は北条氏三代にわたります。
    そして、承久2年(1222)には、「定額寺」(官寺)とする旨が朝廷よりくだされ、この地に「浄土様式」の壮大な寺院が北条氏の寺として造営されました。昭和48年(1973)に、境内を中心に周辺一部地域を含めて「願成就院跡」として国指定史跡になっています。
  • 香山寺
    関連人物 山木兼隆
    営業時間
    定休日
    中伊豆エリア 歴史・文化資源スタンプラリー対象
    (コウザンジ)
    香山寺(臨済宗)は、源頼朝が源氏再興の挙兵をした際に、最初に標的とされた平氏の目代であった山木(八巻)兼隆が建立した寺。
    その後、鎌倉の報国寺開山の天岸慧広が足利家時を開基として開き、北条早雲が中興しました。
    早雲は、京都大徳寺八十三世となった以天宗清(いてんそうせい)を住まわせ、子の氏綱は箱根湯本の早雲寺の開山に迎えたといわれています。
  • 指月殿
    関連人物 源頼家,北条政子
    営業時間
    定休日
    中伊豆エリア スタンプラリー対象歴史・文化資源
    (シゲツデン)
    桂川を挟んで修禅寺と相対する鹿山の麓にあります。修善寺で暗殺された頼家の冥福を祈って母政子が修禅寺に寄進したといわれる経堂です(現在の建物は江戸時代に再建されたものです(市有形文化財))。
    この時寄進された宋版大蔵経のうち巻第二十三、釈迦三尊繍仏は、県有形文化財に指定されており、北条政子直筆といわれる書き込みもあります。なお、 門前の虎渓橋も架け替えたといわれています。
    堂内中央に安置されている仏像は、右手に蓮華を持ち、拈華微笑の故事に基づく禅宋式の木造釈迦如来坐像で、県有形文化財です。 堂に向かって左手に頼家の墓があります。
  • 史跡天野遠景供養塔
    史跡天野遠景供養塔
    関連人物 天野遠景
    営業時間
    定休日
    中伊豆エリア 歴史・文化資源
    (シセキアマノトオカゲクヨウトウ)
    天野遠景は、治承4年(1180)に伊豆国に流されていた源頼朝の挙兵に当初から参陣しています。石橋山の戦いで頼朝は大敗してしまいますが、椙山に逃れた頼朝を守るため、加藤景廉・佐々木高綱・堀親家らとともに奮戦したと言われています。
    富士川の戦いでは、頼朝の挙兵に敵対した伊東祐親を捕縛しました。平家追討では源範頼に従軍。壇ノ浦の戦いを目前とした元暦2年(1185)3月11日には、西海(九州)において特に功があったとして、北条義時・小山朝政・小山宗政・中原親能・葛西清重・加藤景廉・工藤祐経・宇佐美祐茂・仁田忠常・比企朝宗・比企能員とともに頼朝から感状を受けています。
    頼朝亡き後は、正治元年(1199)の梶原景時の追放に関わり、建仁3年(1203)の比企能員の変では仁田忠常とともに比企能員を暗殺したと言われています。没年は不明とされています。
  • 史跡北条氏邸跡(円成寺跡)
    関連人物 北条時政,北条義時,北条政子
    営業時間 9:00~17:00(公開時間)
    QRコードの掲示場所は史跡の手前のため、いつでも読み取りはできます。
    定休日
    中伊豆エリア スタンプラリー対象歴史・文化資源
    (シセキホウジョウシテイアト(エンジョウジアト))
    北条氏邸は鎌倉幕府の執権として活躍した北条氏の館があった場所です。北条氏邸跡が位置する守山は北条氏の本拠地で鎌倉時代に伊豆北條と呼ばれていました。守山の東側には氏寺である願成就院が建てられ、北西側の谷の内部には館が建てられました。平成4年(1992)から平成5年(1993)にかけて行った発掘調査では平安時代末から鎌倉時代はじめにかけての大量の出土遺物とともに建物跡が発見され、北条氏の館があることが確認されました。 弘元3年(1333)、鎌倉幕府の滅亡後、北条一族の妻や娘たちは鎌倉から韮山に戻りました。そして、一族の中の円成尼(えんじょうに)という女性が中心になって、館の跡に寺院を建て、北条氏の冥福を祈ったのが円成寺です。円成寺は室町時代にも尼寺として続き、江戸時代まで続いたことが分かっています。 北条氏邸跡は北条氏が鎌倉に本拠地を移すまでの館跡と北条氏滅亡後の円成寺跡が発見され、北条氏の興亡を物語る遺跡として国指定史跡に指定されました。
  • 史跡北条義時の墓(北條寺内)
    関連人物 北条義時,北条政子
    営業時間 10:00~16:00
    定休日 水曜日
    中伊豆エリア 歴史・文化資源
    (シセキホウジョウヨシトキノハカ(ホウジョウジナイ))
    ▼北条義時夫妻の墓 看板より
    北条義時は北条時政の次子で、源頼朝夫人の政子はその姉である。幼少より、江間の舘に育ち、江間小四郎と称した。頼朝の旗揚げ以来、父時政、兄宗時とともに従い、大功があった。
    鎌倉三代将軍実朝の不慮の死により、源氏の系統が絶えると、京都より頼朝の姉の曽孫にあたる藤原頼経を迎えて自らは執権となり、勢威を極めた。後鳥羽上皇はその専横を憤り、承久3年(1221)院宣をくだして義時を討とうとされた。義時はその子泰時、義時房に大軍を率いて京都に攻め上らせ、官軍を大いに破り、帝を廃し、後鳥羽、順徳、土御門の三上皇を配流した。これが世に言う承久の乱である。
    義時は承久の乱の3年後、元仁元年(1110)六月十三日に62歳で急死した。長子泰時らは、北条氏発祥の地にあるこの寺に墓を建て、追善の碑とした。なおこの墓は向かって右が義時、左が後妻伊賀氏娘の墓である。
  • 修禅寺
    関連人物 源頼家,源範頼
    営業時間
    定休日
    中伊豆エリア 歴史・文化資源
    (シュゼンジ)
    修禅寺(曹洞宗)は、「修善寺」という地名の基となった寺で、正式呼称は「福地山修禅萬安禅寺」(ふくちざんしゅぜんばんなんぜんじ)と言います。
    大同2年(807)、弘法大師の高弟杲隣により創建され、鎌倉時代には建長寺開山の蘭渓道隆により臨済宗となり、室町時代には曹洞宗として再興され現在に至っています。
    源頼朝の弟、源範頼と2代将軍源頼家が幽閉され、殺害された寺とされ、現在のご本尊である木造大日如来坐像はその頃に仏師実慶により造られたもので国の重要文化財です。また宝物殿には、源氏に関する寺宝が納められ、頼家の面といわれるものや、肖像画のほか、頼朝と主従関係にあった加藤景廉の孫にあたる善願上人の蔵骨器(県有形文化財)、神獣鏡(市有形文化財)密教法具一式(市有形文化財)、徳川家康壺型黒印状(市有形文化財)なども見ることができます。
  • 成福寺
    関連人物 北条時政,北条義時,北条政子
    営業時間
    定休日
    中伊豆エリア スタンプラリー対象歴史・文化資源
    (ジョウフクジ)
    浄土真宗大谷派の成福寺は、北条正宗入道によって正応2年(1289)に建立されました。北条正宗は、鎌倉幕府8代執権北条時宗の三男とされています。
    正宗は北条氏一族の菩提を弔うため、曾祖父・北条時政の持仏堂を基にこの地に一宇を開創し、正宗の長子・宗仁がこれを修造して成福寺としたと伝えられています。本堂北側には北条氏一族の供養塔があります。 現在は蓮の名所として知られています。境内には、約230種 250鉢もの花蓮が栽培されていて、毎年6月中旬から8月初旬には見事に咲き揃います。中には2000年前の種から発芽した花や、栽培が難しいとされる黄色い花蓮などもあります。
  • 眞珠院
    関連人物 源頼朝,八重姫
    営業時間 9:00~17:00(御朱印の受付時間)
    受付時間外でも敷地内に入ることはできます。
    定休日
    中伊豆エリア スタンプラリー対象歴史・文化資源
    (シンジュイン)
    中世に始まる曹洞禅林としての眞珠院は、歴代の住僧たちによって、近隣の寺を末寺として取り込み壮大な寺院に発展しました。
    八重姫を祀る静堂があり、伝承によれば、恋仲であった頼朝を慕って伊東から山を越え北条館を訪れた八重姫は、頼朝の心変わりを知り、この寺の前にある真珠ケ渕に身を投じたといわれています。堂の前には「せめて梯子があれば姫を助けられたものを」という里人の思いから、今も小さな梯子が奉納されています。 境内には正安4年(1302)銘の定仙大和尚塔、建武2年(1335)銘の宝篋院塔と五輪塔、貞治2年(1363)銘の阿弥陀如来磨崖仏(いずれも市指定文化財)が残されています。
  • 田代信綱:田代砦跡
    田代信綱:田代砦跡
    関連人物 田代信綱
    営業時間
    定休日
    中伊豆エリア 歴史・文化資源
    (タシロノブツナ タシロトリデアト)
    田代信綱は、「平治の乱」で敗れ、伊豆国の蛭ヶ島に流されていた源頼朝に仕えていた武将です。
    父は、伊豆国の国守だった藤原為綱、母は狩野(工藤)茂光の娘と伝えられています。(後三条天皇の末裔だという説もあります。) 治承4年(1180)の源頼朝の挙兵に従い、源義経の麾下として、一ノ谷や屋島の戦いで活躍しました。その功績が認められ、狩野荘田代郷の地頭に任命されます。 
    承久3年(1221)の「承久の乱」でも功をたて、和泉国大島郷の地頭職を得たと言われています。信綱が治めていた田代郷の「田代砦跡」には、田代信綱の墓と伝わる五輪塔が建てられています。
    田代信綱の祖父狩野(工藤)茂光は、治承4年(1180)年の源頼朝の挙兵に従い、石橋山の戦いに敗れ自害しました。「田代砦跡」は、伊豆市田代にある丘上の約60坪の平地で、近くには曹洞宗の叢林寺があり、観音堂には田代信綱の守本尊とされる千手観音が祀られています。
  • 珍場神社
    珍場神社
    関連人物 北条義時,安千代
    営業時間
    定休日
    中伊豆エリア スタンプラリー対象歴史・文化資源
    (チンバジンジャ)
    北条義時が大蛇に呑み込まれて亡くなった嫡子・安千代の霊を祀るために建立したといわれています。 伝説では、かつて伊豆国江間の池田には、大池があり、大蛇が住んでいたといわれています。 北条義時の嫡子である安千代は、珍野村にあった千葉寺からの帰り道、大池の大蛇に呑み込まれてしまいました。 家来たちから事件を知らされた北条義時は、大いに怒り、大蛇の左眼を射たといいます。すると、大蛇はどこかへ去っていったのだそうです。その後、池は徐々に浅くなり、田地となって、その地は「池田」と名付けられたと言い伝えられています。
  • 筥湯
    関連人物 源頼家,北条時政
    営業時間 12:00~21:00(最終受付20:30)
    定休日
    中伊豆エリア スタンプラリー対象歴史・文化資源
    (ハコユ)
    筥湯は、鎌倉2代将軍源頼家が入浴したという伝説の名湯。 源頼家は、入浴中に北条時政の家来により襲われて亡くなったと言われていますが、その襲われた温泉がこの筥湯だと言われています。

    修善寺にかって7つの外湯があり、現在まで残ったのは「独鈷の湯」のみで、平成12年に筥湯がオープン、外湯が復活しました。
  • 日枝神社
    関連人物 源範頼
    営業時間
    定休日
    中伊豆エリア スタンプラリー対象歴史・文化資源
    (ヒエジンジャ)
    日枝神社は、隣にある修禅寺の鬼門に当たり、もとは修禅寺の山王社(鎮守)で弘法大師の建立といわれています。
    建久4年(1194)年、源範頼が兄である源頼朝に謀叛を疑われて日枝神社の参道脇にあった修禅寺の子院の一つである「信功院」に幽閉されたと言われています。
    また境内には、伊豆半島には珍しい目通り5.5m、樹高約20mの「イチイガシ」(静岡県指定天然記念物)や、2本の杉の根元が一つになっている推定樹齢800年以上の「夫婦杉」などの巨木がそびえています。
  • 蛭ケ島
    関連人物 源頼朝,北条政子
    営業時間
    定休日
    中伊豆エリア 歴史・文化資源スタンプラリー対象
    (ヒルガシマ)
    平治の乱に敗れた源頼朝は、平清盛の継母・池禅尼の命乞いによって伊豆の蛭ヶ島に配流されました。
    永暦元年(1160)2月の14歳から、治承4年(1180)8月に旗挙げする34歳までの20年間をこの地で過ごしたといわれています。流人とはいえ、その監視は比較的ゆるやかであったといわれており、伊東祐親の娘・八重姫との恋、北条政子との結婚のほか、箱根・伊豆山・三嶋の三社詣、天城山での巻狩りなどの伝承も残されています。当時の蛭ヶ島は洪水の度に田方平野を縦横に流れていたであろう狩野川の中洲、あるいは湿田の中の微高地(田島)であったと考えられます。 江戸時代の末に伊豆の地誌「豆州志稿」を著わした秋山富南が、頼朝配流の地と考証したことを記念する「蛭島碑記」(市指定文化財)が立っています。
    周辺は公園として整備され、頼朝と政子が富士に向って立つブロンズ像「蛭ケ島の夫婦(ふたり)」が建てられました。
  • 北條寺
    関連人物 北条義時,北条政子
    営業時間 10:00~16:00
    定休日 水曜日
    中伊豆エリア 歴史・文化資源スタンプラリー対象
    (ホウジョウジ)
    北條寺は、北条義時が創建した寺です。
    義時の嫡子が大蛇に襲われ命を失った時、七堂伽藍を建立し、仏殿の阿弥陀如来坐像(静岡県指定文化財)を運慶に命じ作らせたと伝えられています。また、本尊の木造観音菩薩坐像(静岡県指定文化財)は、中国宋風の仏像であり、南北朝期の作とされている。
    寺宝は、寺宝の牡丹鳥獣文繍帳(県指定文化財)は、北条政子が奉納したと伝わるものです。境内には、北条義時の墓(伊豆の国市指定文化財)があります。
  • 北条時政の墓(願成就院内)
    関連人物 北条時政
    営業時間 10:00~16:00
    定休日 火曜日、水曜日
    中伊豆エリア 歴史・文化資源スタンプラリー対象
    (ホウジョウトキマサノハカ(ガンジョウジュインナイ))
    願成就院の中にある北条時政の墓。
    願成就院は時政が創建した氏寺であり、国宝の運慶作5体の仏像が安置されています。
    伊豆国北条に館を構えていた伊豆の有力豪族の一人。源頼朝の岳父となり、頼朝の挙兵を助けて鎌倉幕府の成立に貢献し、幕府初代執権に就任した。北条氏繁栄の礎となり、建保3年(1215)78歳で没した。
  • 北条政子産湯の井戸
    関連人物 北条政子
    営業時間
    定休日
    中伊豆エリア 歴史・文化資源スタンプラリー対象
    (ホウジョウマサコウブユノイド)
    源頼朝の妻・政子は北条時政の長女として保元2年(1157)、伊豆の国市に誕生しました。
    その時に産湯の水をとったのが、この井戸と伝えられています。
    守山北麓の一帯は北条氏の屋敷跡で、後に堀越御所が造られました。
    この井戸の水は北条政子の伝承から、安産に霊験ありとして、近年まで妊婦に飲ませていました。
    また、昭和33年(1958)の狩野川台風の時、この井戸は泥水に浸からなかったため、付近の住民の飲料水ともなりました。
  • 北条義時館跡(江間公園)
    関連人物 北条義時
    営業時間
    定休日
    中伊豆エリア スタンプラリー対象歴史・文化資源
    (ホウジョウヨシトキヤカタアト(エマコウエン))
    北条義時が青年時代を過ごした場所。現在は石碑のみが建てられています。
    北条義時は、伊豆国北条郷の豪族北条時政の次男。
    江間四郎あるいは江間小四郎と呼ばれた義時は、分家の江間家の初代だったと考えられています。
    菩提寺の北條寺の近くにある江間公園は、義時邸があった所と伝えられる地です。
    江間公園にある碑には「北条義時(江間小四郎義時)屋敷跡」と刻まれています。
  • 堀藤次親家館跡
    堀藤次親家館跡
    関連人物 堀親家
    営業時間
    定休日
    中伊豆エリア 歴史・文化資源
    (ホリノトウジチカイエヤカタアト)
    堀親家は、源頼朝が伊豆国の流人だった頃から頼朝に仕えていた武将です。 治承4年(1180)8月17日の頼朝の挙兵に参じ、山木館襲撃で活躍しました。相模国進軍後の石橋山の戦いでは、大敗して椙山に逃れた頼朝を守るため、佐々木高綱・加藤景廉・天野遠景らとともに奮戦したと言われています。
  • 豆塚神社
    関連人物 北条義時
    営業時間
    定休日
    中伊豆エリア スタンプラリー対象歴史・文化資源
    (マメヅカジンジャ)
    『延喜式神名帳』にある「石徳高神社」に比定される式内社。 創祀年代は不詳ですが、かつては、当社の南にある男山(雄徳山)山頂に鎮座していたといいます。 北条義時が小池堀丸山(現伊豆縦貫道料金所付近)から現在の場所へと移したことが、江戸時代の板銘に記されている。
  • 源範頼の墓
    関連人物 源範頼,梶原景時
    営業時間
    定休日
    中伊豆エリア スタンプラリー対象歴史・文化資源
    (ミナモトノノリヨリノハカ)
    源範頼は、源頼朝の異母弟で、義経の異母兄。遠州池田宿の生まれで、幼少期を蒲の御厨で過ごしたため、「蒲の冠者(かばのかじゃ)」とよばれていました。
    源氏の総帥として平家討伐で大きな武功を立てましたが、建久4年(1193)、源頼朝討ち死にの誤報が伝えられ、悲しむ北条政子に「範頼ある限りご安心を」と慰めたため謀反の疑いを招き、範頼は百方陳弁に務めたが、ついに修禅寺八塔司(はったっす)の一つ信功院に幽閉されました。
    その後、梶原景時(かじわら かげとき)の不意打ちに会い、防戦の末自刃したといわれています。信功院は、現在の日枝神社の下あたりにあったと伝えられています。
    現在の墓碑は、1932(昭和7)年に修善寺に関わりがあった日本画家の安田靫彦画伯が設計したものです。
  • 源頼家家臣十三士の墓(源氏公園内)
    源頼家家臣十三士の墓(源氏公園内)
    関連人物 源頼家
    営業時間
    定休日
    中伊豆エリア 歴史・文化資源
    (ミナモトノヨリイエカシンジュウサンシノハカ(ゲンジコウエンナイ))
    頼家の家臣であった十三士の墓です。
    鎌倉時代の歴史書である「吾妻鏡」によると、頼家公が暗殺された6日後の7月24日に、主君の無念を晴らすべく謀反を企てましたが、事前に事が発覚してしまい、後に侍所の所司にもなった金窪行親(かなくぼゆきちか)らの手により討ち取られたと言われています。
  • 源頼家の墓・源頼家公廟道(源氏公園内)
    関連人物 源頼家
    営業時間
    定休日
    中伊豆エリア 歴史・文化資源
    (ミナモトノヨリイエノハカ・ミナモトノヨリエコウビョウドウ(ゲンジコウエンナイ))
    修禅寺と対面する鹿山(しかやま)のふもと源氏公園内の指月殿隣にあります。
    正面に立っている石柱は元禄16年(1703)頼家500回忌の際に、時の修禅寺住職が建てた記念碑。
    本当の墓は記念碑の奥にある小さなもので、三基あるうち真ん中が頼家、両側が側室の若狭の局(わかさのつぼね)とその子一幡(いちまん)のものといわれています。
  • 守山八幡宮
    関連人物 源頼朝
    営業時間
    定休日
    中伊豆エリア スタンプラリー対象歴史・文化資源
    (モリヤマハチマングウ)
    願成就院の後方にある神社。治承4年(1180)に源頼朝が挙兵した地であり、源頼朝ゆかりの神社です。 境内の石碑には、「史蹟 源頼朝挙兵之碑」と題した石碑があり、次のように刻まれています。 「源頼朝 治承四年八月十五日守山八 幡宮に平家追討を祈願して挙兵 夜陰 源氏重恩の軍 兵数十騎 山木判官平兼隆を襲い討つ 其の間 頼朝  遥かに山木館の火煙を望み 悲願の達成を悦ぶ 蓋し鎌倉幕府草創の礎はここに於て成ると 故に記して 建碑の所以とする」 現在の本殿は慶長2年(1597)韮山城主内藤信成の造営です。
  • 八坂神社
    関連人物 北条義時
    営業時間
    定休日
    中伊豆エリア 歴史・文化資源スタンプラリー対象
    (ヤサカジンジャ)
    創立年や由緒は諸説あるが、その一つとして北条義時が男山より遷座したと伝わる。毎年7月に天王祭が行われます。
    狩野川右岸の四日町地区の鎮守である八坂神社には、須佐之男命と奇稲田姫の命の二柱とともに牛頭天王が祀られています。寄棟造銅板葺の拝殿と覆屋があり、覆屋の中に江戸時代後期のものとみられる流造の本殿を納めています。また、末社として境内に大山祇神社が祀られています。
    牛頭天王については、正長元年(1428)に起きた「酉の満水」と呼ばれる洪水の時、狩野川上流の梅木村(現伊豆市)からご神体の木像が四日町に漂着し、それを祀ったという伝承がある。ご神体が流れ着いたとされる場所は、八坂神社から道をはさんだ向かい側にあり、現在も「降臨の地」として大切にされ、お天王さんの際に神輿が渡御する、お旅所となっています。
  • 横瀬八幡神社
    関連人物 源頼家,北条政子
    営業時間
    定休日
    中伊豆エリア 歴史・文化資源
    (ヨコセハチマンジンジャ)
    横瀬八幡神社は、旧修善寺村の氏神として古来より厚く尊崇されている神社で、祭神は不詳、相殿(あいどの)は鎌倉二代将軍・源頼家。 元々は現在の場所より200mほど東側にある月見ヶ丘にあり、2体の古像がまつられた旧祠でしたが、のちに現在の場所に社殿を建立し、源頼家公の束帯(そくたい=公家の正装)の立像を作り、廟(みたまや)とし、八幡と称しました。 境内には、頼家の母・北条政子の悪病平癒の伝説を持つ『孔門石(紅門石)』または『玉門石』と呼ばれる、女陰の石尊がまつられており、女性特有の病や子宝開運のご利益があると言われています。 祭礼は毎年10月19日(またはその近くの日曜日)に行われています。