南伊豆エリア AREA
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相生堂
関連人物 源頼朝 営業時間 ー 定休日 ー 南伊豆エリア 歴史・文化資源スタンプラリー対象(アイオイドウ)
平治の乱(平治元年(1159))の翌年、伊豆・蛭ケ島に流された源頼朝と、承安3年(1173)後白河法皇に京都・神護寺再興の寄進を強要した大罪により、伊豆・田方の奈古屋の毘沙門堂に配流の身となった文覚上人が、ひそかに会った相生堂跡が宮内地区にある。文覚上人はここで頼朝に平家討伐を説得し、しきりにその決意をうながしたといいます。
頼朝と文覚上人は源氏再興について話し合ったことを記念して、ここにお堂を建てて観世音菩薩を安置し、2本の松を植えた。これがいわゆる「相生堂」であり、「相生の松」であります。建久3年(1192)平家と藤原氏を滅ぼして征夷大将軍となり、鎌倉に幕府を開いた頼朝は、文覚上人と会った日のことを忘れず、相生堂に対して寺領200石を寄進。また慶安元年(1648)には3代将軍徳川家光が、12石の朱印状をこのお堂に与えています。
しかし明治維新後廃堂となり、やがていつの間にか朽ちはててしまい、「相生の松」も枯れてしまった。ただ、生鉄和尚が書いた「相生堂」の扁額や、源頼朝・文覚上人の木像は近くの円通寺に移され、今もそこに往時のなごりをとどめています。 -
伊那上神社
関連人物 源頼朝 営業時間 ー 定休日 ー 南伊豆エリア 歴史・文化資源スタンプラリー対象(イナカミジンジャ)
式内社で、創建は不詳とされているが、平安時代初期、弘仁2年(811)伊予国(愛媛県)越智郡三島より遷祀したといい、また一説に弘仁8年(817)国府三島より遷祀したとも伝えられています。 社名については文治元年(1185)文書に、伊豆国那賀郡三島宮、慶長5年彦坂九兵衛の神領付には「松崎上宮神領分」とあり、正徳2年(1712)の棟札に伊那上宮とある。寛政7年(1795)円通寺との山論(山林の境界の争い)の評定所裁決書には三嶋大明神とあります。 神職金指(差)氏は、豆州志稿によると伊予国河野氏の後裔で三島明神と共に当地に来たといわれています。 日本書紀の応神天皇の巻に、新羅王が造船の匠を日本に送ったことが記されており、古い伝えでは、当地にも帰化したこの猪名部が集落を営み、産土神として、伊那上、下社を祀ったという帰化人奉祀説があり、那賀川の上、下により区別され、伊那上は三島神社の系統へ移っていったと思われます。 平安時代、延喜7年(907)式内社に列し、伊那下神社とは相対的に存在した社であった。鎌倉時代、「承安3年(1173)源頼朝公参詣三島明神」と金指家過去帳にあり、のち頼朝より、社田寄進を受け、社殿宏壮で末社80有余、伊豆西海岸第一の宮であったといい、 本殿内の神像6躰(町指定文化財)は、鎌倉前期の作で、同中期の神鏡「松喰双鶴鏡」、「釣燈籠」は県文化財に指定されています。 -
稲取港
関連人物 源頼朝 営業時間 8:30~15:00 定休日 第2火曜日 12月31日 南伊豆エリア 歴史・文化資源スタンプラリー対象(イナトリコウ)
源頼朝は、蛭ヶ島(現伊豆の国市)に流されたおり、伊東・川津といった伊豆の豪族と親交を結び、稲取の八幡神社にも参拝したと伝えられています。 頼朝が建久3年(1192)に鎌倉幕府を開くと、東伊豆と鎌倉の往来も盛んになり陸上交通が発展しました。 同時に稲取港をはじめ伊豆の港も海上交通の発達とともに中継点として栄え、南北朝・室町時代には、紀州から来た鈴木一族によって管理されるようになりました。
江戸時代初めには、江戸城修築の石(築城石)を運び出す港として栄え、港に面する栗田家には土佐藩2代藩主の山内忠義の時に切り出された2つの築城石があります。また、港に面した遺跡は舫石や東区道祖神石像があり、いずれも町指定文化財となっています。 -
稲取八幡神社
関連人物 源頼朝 営業時間 ー 定休日 ー 南伊豆エリア 歴史・文化資源スタンプラリー対象(イナトリハチマンジンジャ)
稲取の総鎮守社として稲取の人々から崇敬されている神社であり、平安時代末より源氏との縁が深く、境内の井戸は源頼朝が参拝のときにこの井戸で身を清めたと伝えられています。また頼朝が守り本尊にしたと伝えられる仏像を奉祀しています。
稲取は江戸時代初めに江戸城修築の石(築城石)を運んでいますが、境内の「日露戦役忠魂碑」の土台の石はこの築城石のひとつです。 -
遠国島
関連人物 源頼朝 営業時間 ー 定休日 ー 南伊豆エリア 歴史・文化資源(オンゴクトウ)
田牛の岳浦というところにある島で、干潮時には歩いて渉ことができる。源頼朝が訪れ遊んでいたといわれ、中央に遠国明神の宮祠がある。 -
河津八幡神社
関連人物 曽我十郎祐成,曽我五郎時政 営業時間 9:00~17:00 定休日 ー 南伊豆エリア スタンプラリー対象歴史・文化資源(カワヅハチマンジンジャ)
この地は河津三郎祐泰の館跡と言われています。
河津の地を領した河津三郎祐泰とその子曽我十郎祐成、五郎時致の霊を八幡神社に合祀しています。
鳥居脇には剛力で知られた祐泰が鍛錬に使った手玉石が残っています。 -
吉佐美八幡神社
関連人物 源頼朝,菖蒲前 営業時間 ー 定休日 ー 南伊豆エリア 歴史・文化資源(キサミハチマンジンジャ)
伊豆の国司であった頼政公とその妻菖蒲前の碑があります。相殿三島神社は式内竹麻神社の一座に比定されています。神社境内のイスノキは国の天然記念物です。 -
鯉名湊
関連人物 伊東祐親 営業時間 ー 定休日 ー 南伊豆エリア スタンプラリー対象歴史・文化資源(コイナミナト)
伊東祐親が富士川の戦いで平家に加わろうとして捕えられた港と言われています。
小稲は昔は鯉名と書いたと言われているが、青野川下流に鯉名湊があったと言われている。昔、鯉名湾に居た一族は、 湾の沖積により正善寺を残し、現在の小稲へ集団移住しました。
源平の戦いの中では局地戦に過ぎないが、 南伊豆の地が戦場となった唯一の例として「鯉名の合戦」がある。 石橋山の戦いに敗れ、安房国に逃れた頼朝は態勢を立て直し、 治承4年(1180)関東の武士団を率いて、沼津黄瀬川に軍を進めました。
この時、伊豆の平氏勢力の伊東祐親が鯉名湊に船を集め、 海上より平氏軍に合流しようとし、 これを察知した頼朝は、天野遠景を派遣して鯉名に攻めて伊東氏を生け捕りにしました。 -
小鍋神社
関連人物 文覚上人,源頼朝 営業時間 ー 定休日 ー 南伊豆エリア 歴史・文化資源(コナベジンジャ)
伊豆に流された文覚上人と源頼朝の、源氏再興にまつわる話が残されています。
文覚上人が頼朝の父義朝のドクロを頼朝に見せ、源氏再興を促したと伝えられています。
後にドクロを埋葬した場所は神社の南側の樫の巨木の下といわれ、ドクロ木と呼ばれています。
また、源頼朝の兵が露営した際、兵たちが鍋を借り集めたというエピソードも、小鍋の地名の由来として残っています。 -
三四郎島・瀬浜
関連人物 源頼朝 営業時間 ー 定休日 ー 南伊豆エリア 歴史・文化資源スタンプラリー対象(サンシロウジマ・セハマ)
源氏再興の昔、”伊豆の三四郎”と呼ばれる若武者が、中の島にきびしい平家の追求の目を逃れて隠れ住んでいたと伝えられています。
治承4年(1180)、源氏の白旗は伊豆の空にひるがえり、頼朝の急使は仁科の豪族瀬尾行信のもとに走ります。
三四郎に恋心を抱いている行信の一人娘小雪は、出陣の書状を抱きしめ、三四郎のもとに急ぎました。
しかし、上げ潮の怒濤は凄まじく、小雪はついに波間にその姿を没してしまったと言われています。 -
田牛八幡神社
関連人物 源頼朝 営業時間 ー 定休日 ー 南伊豆エリア スタンプラリー対象歴史・文化資源(トウジハチマンジンジャ)
寛政12年(1800年)に刻まれた、「遠国嶋記」という源頼朝が遠国島に訪れていたことを記す銅板が保存されている。 -
八幡神社
関連人物 ー 営業時間 ー 定休日 ー 南伊豆エリア スタンプラリー対象歴史・文化資源(ハチマンジンジャ)
鎌倉の鶴岡八幡宮が幕府の守護神となり、地頭などになった武士たちが任地に分祀して全国に広がっています。
この時代、石廊崎は大瀬の枝郷であったため大瀬として祀っていた。元和年間(1620年頃)分村して、石廊崎が祀ることになった。
町内には八幡と名の付く神社が、若宮八幡宮(蛇石)、若宮八幡神社(差田)、新八幡神社(中木)、八幡神社(西子浦)とあるが、すべてハチマンと読む。 -
八幡神社(哆胡神社)
関連人物 ー 営業時間 ー 定休日 ー 南伊豆エリア 歴史・文化資源(ハチマンジンジャ(タゴジンジャ))
源頼朝が旗揚げの際、京都岩清水八幡宮に拝礼し、八幡宮は武士の守護神となりました。出典:伊豆大辞典、伊豆の源氏等
▼?胡神社 看板より
「えびすさま、はちまんさまといわれ、千年前からおまつりされていた、三島明神(事代主神)は、始めは元宮に、後に飯盛山の地に、八幡社は、大田子山崎の地に鎮座され、明治14年(1881)12月、合併されて、現在地合ノ浦に神殿を造営鎮座された。
他に、神明社(天照大神)山神社(大山祇神)天神社(菅原道真命)天玉社(須佐之男命)稲荷社等おまつりしてある。」 -
文覚山円通寺
関連人物 文覚上人,源頼朝 営業時間 ー 定休日 ー 南伊豆エリア スタンプラリー対象歴史・文化資源(モンカクサンエンツウジ)
(伝承記)その昔、妙智山・円通寺と称して、観音菩薩(弘法大師の作と伝えられる)を祀る、真言宗の小さな庵が宮内村にあったという。 貞治元年(1362)、鎌倉建長寺より東林友丘を請じ、船田帰一寺末として臨済宗に改宗、堂宇を那賀川沿い(伊那上神社前)に建立した。したがって東林友丘が開山となっている。 その後、安土桃山時代の終わりにかけた230年余りは、寺の衰微期間か、寺歴は全く不明である。慶長の頃、二世欽堂(慶長16年示寂)が出て衰微していた寺を再興している。 江戸時代三世遼天の代の慶安2年(1649)には、3代将軍家光より寺領12石の朱印状を受けた。 源頼朝と文覚上人の座像がある。