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  • 愛童将軍地蔵尊
    関連人物 源頼家
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    中伊豆エリア 歴史・文化資源
    (アイドウショウグンジゾウソン)
    修禅寺に幽閉されていた鎌倉二代将軍・源頼家が非業の死を遂げたことを知った地元の人々によって建てられた笠冠地蔵。 元は月見ヶ丘の中腹にありましたが、昭和36年に道路拡張工事で山の一部が削られたため、修善寺橋の西北のたもとに移されました。 幽閉されていたころの頼家は、修禅寺の山を下り、狩野川のほとりの月見ヶ丘にのぼって月を眺めてその憂さを晴らし、また里の子どもを集め共に遊びながら、鎌倉に残したわが息子・一幡に思いを馳せていたといいます。 23歳の若さで無残に暗殺されたことを知った里の人たちはとても悲しみ、浄財を集めて月見ヶ丘に地蔵を建立しました。 源頼家は、里の子ども達を大変かわいがった将軍であったので『愛童将軍地蔵』と呼ばれています。
  • 安達藤九郎盛長の墓
    関連人物 安達盛長
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    中伊豆エリア 歴史・文化資源スタンプラリー対象
    (アダチトウクロウモリナガノハカ)
    安達藤九郎盛長は、源頼朝が伊豆の流人となった頃から側近として仕えていた武将で、頼朝の死後、鎌倉二代将軍・源頼家の宿老として十三人の合議制の一人になり幕政に参画しましたが、翌年66歳で死去しています。
    妻は頼朝の乳母・比丘尼の娘・丹後の局、娘・亀御前は、頼朝の異母弟・源範頼の妻であったため、この地に墓があると言われています。
  • 加藤景廉一族の墓
    関連人物 加藤景廉
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    中伊豆エリア 歴史・文化資源
    (カトウカゲカドイチゾクノハカ)
    加藤景廉は、平安末期から鎌倉時代初期の武将です。藤原利仁の流れを汲む加藤景員の子で、元々は伊勢の国を本拠としていましたが、源頼朝が源氏旗揚げの際、兄の光員とともに伊豆に下り、狩野茂光(かのもちみつ)らの協力を得て土着勢力となりました。 治承4年(1180)に源頼朝が平氏打倒のため挙兵するといち早く参じて平氏の目代・山木兼隆を討ち取る大功を立てたと言われています。
    以後、鎌倉幕府創設に献身努力し、頼朝から遠州浅羽、美濃遠山、伊豆牧之郷等の所領を与えられ、岐阜県遠山地方の要衝岩村(恵那市岩村町)に城を築きました。後に嫡男の遠山景朝に城を譲り、牧之郷に帰ると、源平の合戦で亡くなった人達の精霊供養のため、読経三昧に明け暮れたと言われています。 承久3年(1221)の承久の乱において、宿老の一人として鎌倉に留まりましたが、8月3日に没しました。
  • 指月殿
    関連人物 源頼家,北条政子
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    中伊豆エリア 歴史・文化資源スタンプラリー対象
    (シゲツデン)
    桂川を挟んで修禅寺と相対する鹿山の麓にあります。修善寺で暗殺された頼家の冥福を祈って母政子が修禅寺に寄進したといわれる経堂です(現在の建物は江戸時代に再建されたものです(市有形文化財))。
    この時寄進された宋版大蔵経のうち巻第二十三、釈迦三尊繍仏は、県有形文化財に指定されており、北条政子直筆といわれる書き込みもあります。なお、 門前の虎渓橋も架け替えたといわれています。
    堂内中央に安置されている仏像は、右手に蓮華を持ち、拈華微笑の故事に基づく禅宋式の木造釈迦如来坐像で、県有形文化財です。 堂に向かって左手に頼家の墓があります。
  • 修禅寺
    関連人物 源頼家,源範頼
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    中伊豆エリア 歴史・文化資源
    (シュゼンジ)
    修禅寺(曹洞宗)は、「修善寺」という地名の基となった寺で、正式呼称は「福地山修禅萬安禅寺」(ふくちざんしゅぜんばんなんぜんじ)と言います。
    大同2年(807)、弘法大師の高弟杲隣により創建され、鎌倉時代には建長寺開山の蘭渓道隆により臨済宗となり、室町時代には曹洞宗として再興され現在に至っています。
    源頼朝の弟、源範頼と2代将軍源頼家が幽閉され、殺害された寺とされ、現在のご本尊である木造大日如来坐像はその頃に仏師実慶により造られたもので国の重要文化財です。また宝物殿には、源氏に関する寺宝が納められ、頼家の面といわれるものや、肖像画のほか、頼朝と主従関係にあった加藤景廉の孫にあたる善願上人の蔵骨器(県有形文化財)、神獣鏡(市有形文化財)密教法具一式(市有形文化財)、徳川家康壺型黒印状(市有形文化財)なども見ることができます。
  • 田代信綱:田代砦跡
    田代信綱:田代砦跡
    関連人物 田代信綱
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    中伊豆エリア 歴史・文化資源
    (タシロノブツナ タシロトリデアト)
    田代信綱は、「平治の乱」で敗れ、伊豆国の蛭ヶ島に流されていた源頼朝に仕えていた武将です。
    父は、伊豆国の国守だった藤原為綱、母は狩野(工藤)茂光の娘と伝えられています。(後三条天皇の末裔だという説もあります。) 治承4年(1180)の源頼朝の挙兵に従い、源義経の麾下として、一ノ谷や屋島の戦いで活躍しました。その功績が認められ、狩野荘田代郷の地頭に任命されます。 
    承久3年(1221)の「承久の乱」でも功をたて、和泉国大島郷の地頭職を得たと言われています。信綱が治めていた田代郷の「田代砦跡」には、田代信綱の墓と伝わる五輪塔が建てられています。
    田代信綱の祖父狩野(工藤)茂光は、治承4年(1180)年の源頼朝の挙兵に従い、石橋山の戦いに敗れ自害しました。「田代砦跡」は、伊豆市田代にある丘上の約60坪の平地で、近くには曹洞宗の叢林寺があり、観音堂には田代信綱の守本尊とされる千手観音が祀られています。
  • 筥湯
    関連人物 源頼家,北条時政
    営業時間 12:00~21:00(最終受付20:30)
    定休日
    中伊豆エリア 歴史・文化資源スタンプラリー対象
    (ハコユ)
    筥湯は、鎌倉2代将軍源頼家が入浴したという伝説の名湯。 源頼家は、入浴中に北条時政の家来により襲われて亡くなったと言われていますが、その襲われた温泉がこの筥湯だと言われています。

    修善寺にかって7つの外湯があり、現在まで残ったのは「独鈷の湯」のみで、平成12年に筥湯がオープン、外湯が復活しました。
  • 日枝神社
    関連人物 源範頼
    営業時間
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    中伊豆エリア 歴史・文化資源スタンプラリー対象
    (ヒエジンジャ)
    日枝神社は、隣にある修禅寺の鬼門に当たり、もとは修禅寺の山王社(鎮守)で弘法大師の建立といわれています。
    建久4年(1194)年、源範頼が兄である源頼朝に謀叛を疑われて日枝神社の参道脇にあった修禅寺の子院の一つである「信功院」に幽閉されたと言われています。
    また境内には、伊豆半島には珍しい目通り5.5m、樹高約20mの「イチイガシ」(静岡県指定天然記念物)や、2本の杉の根元が一つになっている推定樹齢800年以上の「夫婦杉」などの巨木がそびえています。
  • 堀藤次親家館跡
    堀藤次親家館跡
    関連人物 堀親家
    営業時間
    定休日
    中伊豆エリア 歴史・文化資源
    (ホリノトウジチカイエヤカタアト)
    堀親家は、源頼朝が伊豆国の流人だった頃から頼朝に仕えていた武将です。 治承4年(1180)8月17日の頼朝の挙兵に参じ、山木館襲撃で活躍しました。相模国進軍後の石橋山の戦いでは、大敗して椙山に逃れた頼朝を守るため、佐々木高綱・加藤景廉・天野遠景らとともに奮戦したと言われています。
  • 源範頼の墓
    関連人物 源範頼,梶原景時
    営業時間
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    中伊豆エリア 歴史・文化資源スタンプラリー対象
    (ミナモトノノリヨリノハカ)
    源範頼は、源頼朝の異母弟で、義経の異母兄。遠州池田宿の生まれで、幼少期を蒲の御厨で過ごしたため、「蒲の冠者(かばのかじゃ)」とよばれていました。
    源氏の総帥として平家討伐で大きな武功を立てましたが、建久4年(1193)、源頼朝討ち死にの誤報が伝えられ、悲しむ北条政子に「範頼ある限りご安心を」と慰めたため謀反の疑いを招き、範頼は百方陳弁に務めたが、ついに修禅寺八塔司(はったっす)の一つ信功院に幽閉されました。
    その後、梶原景時(かじわら かげとき)の不意打ちに会い、防戦の末自刃したといわれています。信功院は、現在の日枝神社の下あたりにあったと伝えられています。
    現在の墓碑は、1932(昭和7)年に修善寺に関わりがあった日本画家の安田靫彦画伯が設計したものです。
  • 源頼家家臣十三士の墓(源氏公園内)
    源頼家家臣十三士の墓(源氏公園内)
    関連人物 源頼家
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    中伊豆エリア 歴史・文化資源
    (ミナモトノヨリイエカシンジュウサンシノハカ(ゲンジコウエンナイ))
    頼家の家臣であった十三士の墓です。
    鎌倉時代の歴史書である「吾妻鏡」によると、頼家公が暗殺された6日後の7月24日に、主君の無念を晴らすべく謀反を企てましたが、事前に事が発覚してしまい、後に侍所の所司にもなった金窪行親(かなくぼゆきちか)らの手により討ち取られたと言われています。
  • 源頼家の墓・源頼家公廟道(源氏公園内)
    関連人物 源頼家
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    中伊豆エリア 歴史・文化資源
    (ミナモトノヨリイエノハカ・ミナモトノヨリエコウビョウドウ(ゲンジコウエンナイ))
    修禅寺と対面する鹿山(しかやま)のふもと源氏公園内の指月殿隣にあります。
    正面に立っている石柱は元禄16年(1703)頼家500回忌の際に、時の修禅寺住職が建てた記念碑。
    本当の墓は記念碑の奥にある小さなもので、三基あるうち真ん中が頼家、両側が側室の若狭の局(わかさのつぼね)とその子一幡(いちまん)のものといわれています。
  • 横瀬八幡神社
    関連人物 源頼家,北条政子
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    中伊豆エリア 歴史・文化資源
    (ヨコセハチマンジンジャ)
    横瀬八幡神社は、旧修善寺村の氏神として古来より厚く尊崇されている神社で、祭神は不詳、相殿(あいどの)は鎌倉二代将軍・源頼家。 元々は現在の場所より200mほど東側にある月見ヶ丘にあり、2体の古像がまつられた旧祠でしたが、のちに現在の場所に社殿を建立し、源頼家公の束帯(そくたい=公家の正装)の立像を作り、廟(みたまや)とし、八幡と称しました。 境内には、頼家の母・北条政子の悪病平癒の伝説を持つ『孔門石(紅門石)』または『玉門石』と呼ばれる、女陰の石尊がまつられており、女性特有の病や子宝開運のご利益があると言われています。 祭礼は毎年10月19日(またはその近くの日曜日)に行われています。
  • 最誓寺
    関連人物 八重姫,北条義時,伊東家
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    東伊豆エリア 歴史・文化資源
    伊東祐親の娘「八重姫」が、源頼朝との間の子「千鶴丸」(千鶴御前)を弔うために、江間小四郎(のちの北条義時)に願い建立されたと伝わる。当初の寺号は「西成寺」であったが、慶長年間に曹洞宗に改宗、寺号を「最誓寺」に改めた。境内に伊東市指定史跡第一号の「伊東家の墓」がある。これは、江戸時代に周囲に散在していた五輪塔や宝篋印塔を集めたものである。本堂には八重姫が奉祀したとされる「千鶴丸地蔵尊」が安置されている。