STORY

~『ぶし(武士)のくに』から『ふじ(富士)のくに』へ~

静岡県では、大河ドラマ「鎌倉殿の13人」「どうする家康」(NHK)の放送を契機に
伊豆・富士山地域の歴史・文化資源を活用し、本地域への来訪や周遊促進、消費喚起に取り組んでいます。

静岡県伊豆・富士山地域には源頼朝と北条政子が深い信仰を寄せ、江戸時代には徳川将軍も崇拝した伊豆山神社や、
源頼朝が源氏再興を祈願した三嶋大社、北条氏ゆかりの願成就院、幕末に開港された伊豆下田港など、
武家社会の成立から終焉までに関する歴史・文化資源が多く存在しており、いわば「ぶし(武士)のくに」といえます。

このサイトの各ページでは、伊豆・富士山地域の歴史・文化資源の魅力を様々な形で紹介しています。

武士の世の始まり(前編)
【伊豆・富士山歴史絵巻①】

武士の世の始まり(後編)
【伊豆・富士山歴史絵巻②】

北条政子
源頼家
源頼朝
北条時政
北条義時
和田義盛
比企能員
梶原景時
仁田忠常
八重姫
安達盛長
北条宗時
伊東祐親
大江広元
阿野全成
三浦義澄
中原親能
足立遠元
三善康信
八田知家
二階堂行政

伊豆・富士山歴史絵巻の旅へ

  • 在庁道(頼朝道)
    関連人物 源頼朝
    営業時間
    定休日
    北伊豆エリア 歴史・文化資源
    (ザイチョウドウ(ライチョウドウ))
    三嶋大社の例祭には必ず参拝すると誓った源頼朝が、鎌倉から離れているために、安久にいる7人の農民に命じて交代で代参させたと伝えられています。彼らは「在庁」または「頼朝(らいちょう)」と呼ばれ、頼朝と同じ征夷大将軍の装束で代参していたといいます。
    この時に使われていた安久から青木に北上し間眠神社横に向かう道は、「在庁道」または「頼朝道」と呼ばれ、この風習は明治時代まで行われていました。
  • 右内神社
    関連人物 源頼朝
    営業時間
    定休日
    北伊豆エリア スタンプラリー対象歴史・文化資源
    (ウナイジンジャ)
    梅名の右内神社は中島の左内神社と共に三嶋大社の御門の守護神で、大社と関係の深い神社です。源頼朝も三嶋大社への途上で度々参詣したといわれています。
    あるとき、手洗い水がないことを不自由に思った頼朝が薙刀(なぎなた)で地面を二三度突いたところ、そこから水が湧き出したといいます。以後、村人はこの「頼朝の手洗い水」を大切にしました。
    鳥居が面している道は道幅が狭く交通量も多くありませんが、東へ進むと道祖神が祀(まつ)られており、その先はかつて中郷村役場のあった梅名公民館へ通じています。
    神社の北を通る県道141号ができる前の地図を見ると、かつては中郷小学校から右内神社前、公民館、大場橋へと通じる道が地域にとって重要な道であったことがうかがえます。
  • 曽我八幡宮
    曽我八幡宮
    関連人物 曽我十郎祐成,曽我五郎時致
    営業時間
    定休日
    富士山西エリア 歴史・文化資源スタンプラリー対象
    (ソガハチマングウ)
    この神社には、応神天皇と曽我兄弟が祀られています。
    神社が所蔵している「曽我八幡宮略縁起」には、建久8年(1197)、曽我兄弟の親の仇討ちの意志に感心した源頼朝が家臣の岡部泰綱に命じて建てたといわれています。
     天文年間(1532~1555)に武田、今川、北条の三氏の戦場になったため神社は焼けてしまいました。江戸時代になり、慶長14年(1609)に、関東代官の伊奈備前守忠次が検地のため、この地に来た時に、神社は再建されたとされています。その後、天保2年(1831)雨宮守弘が社殿を現在地に移しました。
     この神社には、奉納された曽我兄弟の絵馬や「曽我八幡宮略縁起」の版木が残されています。(現在は富士山かぐや姫ミュージアムに寄託)
     また、雁をみて父を思う幼い兄弟像が境内にあります。
  • 三嶋大社
    関連人物 源頼朝,北条政子,安達藤九郎盛長
    営業時間
    定休日
    北伊豆エリア スタンプラリー対象歴史・文化資源
    (ミシマタイシャ)
    創建は不詳。祭神は、大山祇命(おおやまつみのみこと)・積羽八重事代主神(つみはやえことしろぬしのかみ)とされています。 平治の乱に敗れ、伊豆国へ流された源頼朝は、三嶋大社を崇敬し、「源氏再興の旗挙げの日」を三嶋大社の祭礼の日と定め、治承4年(1180)、伊豆国の目代山木兼隆を討ちとりました。 宝物館には、北条政子奉納という国宝「梅蒔絵手箱」や源頼家自筆の般若心経が残されています。 また敷地内には、源頼朝と北条政子が三嶋大社を100日に渡り日参した際に休息したとされている『腰かけ石』や、『安達藤九郎盛長 警護の跡』、源頼朝が放生会を行った『神池』、北条政子が勧請した『厳島神社』など、源頼朝夫妻にゆかりのあるスポットが多く残っています。
  • 虎御前の腰掛石
    関連人物 源頼朝,曽我十郎祐成,曽我五郎時致
    営業時間
    定休日
    富士山西エリア 歴史・文化資源
    (トラゴゼンノコシカケイシ)
    曽我兄弟が仇討ちのために旅立った後、虎御前は兄弟の安否を心配して後を追った。虎御前がこの地に差し掛かった時に兄弟の絶命を知り、その場で泣き崩れて岩に腰掛けたという。その石が、虎御前の腰掛石として知られている。
  • 伝阿野全成・阿野時元の墓(大泉寺内)
    関連人物 阿野全成,阿野時元
    営業時間
    定休日
    北伊豆エリア 歴史・文化資源スタンプラリー対象
    (デンアノゼンジョウ・アノトキモトノハカ(ダイセンジナイ))
    大泉寺の境内には源頼朝の異母弟阿野全成と、その子、時元のものと伝わる墓石があります。
    時元の母は北条義時と政子の妹にあたる阿波局といわれています。

    ▼伝阿野全成・時元墓 看板より
    阿野全成は、幼名は今若丸といい清和源氏の嫡男源義朝の七男です。鎌倉幕府を開いた頼朝の異母弟、義経の同母兄にあたり、母は有名な常磐御前です。
    頼朝の死後、建仁3年(1203)5月、全成は阿野庄において兵を挙げましたが、幕府軍に捕らえられ常陸国へ配流となり、同年6月23日、下野国で処刑されました。首は阿野庄の全成館へ届けられたと伝えられています。
    その後、全成の遺児時元も承久元年(1219)2月11日、反北条の兵を挙げましたが、執権北条義時はただちに兵を差し向け、交戦10日の後に阿野一族は敗北して、時元も自刃しました。
  • 北条宗時の墓
    北条宗時の墓
    関連人物 北条宗時,狩野茂光
    営業時間
    定休日
    北伊豆エリア 歴史・文化資源
    (ホウジョウムネトキノハカ)
    北条宗時は、北条時政の嫡男で北条政子の兄です。 治承4年(1180)8月17日、源氏再興の挙兵をした源頼朝に従いますが、頼朝軍は山木兼隆を討った後、8月24日、相模国の石橋山で大庭景親軍に大敗し、頼朝は山中へ逃れました。 『吾妻鏡』によれば、北条時政と宗時、義時の父子は頼朝と別行動をとり、時政と義時は箱根の湯坂道を経て甲斐国へ向かおうとし、宗時は土肥(現湯河原町)から桑原を経て平井郷へ向かおうとしました。しかし、早河の辺で伊東祐親の軍に包囲され小平井久重に討ち取られたのだといいます。のちに時政がこの地に宗時を祀ったものと伝えられています。 大小二基の塔のうち、大きい方が北条宗時、小さい方が狩野(工藤)茂光の墓と言われています。 『吾妻鏡』によれば、建仁2年(1202)、北条時政は夢のお告げによって伊豆国へ下向し、宗時の追善供養を行っています。
  • 大泉寺
    関連人物 阿野全成,阿野時元,阿波局
    営業時間
    定休日
    北伊豆エリア 歴史・文化資源スタンプラリー対象
    (ダイセンジ)
    源頼朝の異母弟阿野全成の居館跡といわれる地に建つ寺。
    境内には館跡を偲ばせる土塁が残っています。 全成が居館に建てた持仏堂が大泉寺のはじまりといわれ、当初は真言宗の寺でしたが、天正年間(1573~92)に曹洞宗に改宗されたとされています。
    ▼大泉寺 HP
    開基は法華院殿阿野法橋全成(ほっけいんでんあのほうきょうぜんじょう)である。牛若丸と弁慶の話は誰でも知っているが、源頼朝に今若丸(いまわかまる)という異母兄弟がいたことは余り知られていない。この今若丸がのちの阿野全成である。牛若丸と今若丸は源義朝と常磐の間に生まれ、平治の乱で義朝が敗北したあと寺に預けられたのも同じなら乱暴者で名が通っていたのも同じである。今若丸は醍醐の悪禅師とも呼ばれ、治承4年(1180)頼朝挙兵後その傘下に加わり、源平の争乱後駿河の阿野荘(沼津市今沢から富士市吉原にかけてを阿野庄といった)を賜って阿野全成と呼ばれるようになる。
    北条時政の娘(阿波局)と結婚し、現在の大泉寺あたりに館を建てその一隅に持仏堂を造り源氏一門の霊を慰めたのが寺の始まりで、最初は真言宗であったという。
  • 駒門風穴
    関連人物 源頼家,仁田忠常
    営業時間 9:00~17:00(12~2月は16:00まで)
    定休日 月曜日(祝日は営業)年末年始は12月31日、ただし1月は第1、第2月曜日は営業
    富士山東エリア スタンプラリー対象歴史・文化資源
    (コマカドカザアナ)
    富士山の爆発によってできた本穴290m、枝穴118.2mの溶岩洞窟が駒門風穴です。富士山麓では最大規模の溶岩洞窟で、国の天然記念物に指定されています。 建仁3年(1203)、鎌倉幕府二代将軍源頼家による「富士の巻狩」の際、 その家来仁田忠常に命じて探検させた風穴と言われています。 風穴の中腹には頼朝窪と名付けられた窪があります。
  • 禅長寺頼政堂
    関連人物 源頼政,菖蒲御前
    営業時間
    定休日
    北伊豆エリア 歴史・文化資源
    (ゼンチョウジヨリマサドウ)
    禅長寺は元は真言宗の寺院で弘法大師の開基と伝わります。大師がこの地で大滝の傍らに不動尊を彫刻し、山上に虚空蔵菩薩を、小滝に観世音菩薩を安置したのが始まりとされ、寛永年間(1624~1645)に村民に請われた雪厳和尚が当寺に住み、開山となって禅宗に改めました。
    伝説では、宇治川の戦いで戦死した源頼政の遺骨を、妻の菖蒲御前が故郷に近いこの地に持ち帰り、山中の当寺に潜んだといわれています。
    元禄11年(1698)頼政の後裔と称する上野高崎城主松平輝貞が改築寄進したものが現在の頼政堂です。建物は寄棟造、瓦葺、平屋建の市内唯一の典型的な禅宗式仏殿建築として市の有形文化財に指定されています。堂内には頼政と菖蒲御前の仏像が安置され、境内には菖蒲塚と、頼政・菖蒲御前の墓地と伝えられているものがあります。
  • 大瀬神社
    関連人物 源為朝,源頼朝,北条政子
    営業時間
    定休日
    北伊豆エリア 歴史・文化資源
    (オセジンジャ)
    大瀬神社の祭神は引手力命(ひきてちからのみこと)で、延喜式に記載される田方郡の式内社「引手力命神社」ではないかといわれています。駿河湾北部沿岸の漁民の信仰を広く集め、船を新造する時には、必ずこの神社に参詣し、海上の安全を祈念したといわれています。
    また、神社には古来から武術の霊験があるといわれ、源為朝が伊豆大島に流された際、海を渡って当社に祈って傷をいやし、以前に増して力を得たといわれています。また、源頼朝や北条政子も太刀や鏡を奉納したと伝わりますが、津波によって失われてしまいました。
    大瀬神社がある大瀬崎は、駿河湾に細長く突き出た半島で、駿河湾の海流によって土砂が堆積した砂嘴(さし)という特殊な地形です。岬の先端にある神池は、海が近いにもかかわらず真水であることから、伊豆の七不思議に数えられています。また、神域には樹齢数百年といわれるビャクシンの古木が多数生い茂り、国の天然記念物に指定されています。
  • 成福寺
    関連人物 北条時政,北条義時,北条政子
    営業時間
    定休日
    中伊豆エリア 歴史・文化資源スタンプラリー対象
    (ジョウフクジ)
    浄土真宗大谷派の成福寺は、北条正宗入道によって正応2年(1289)に建立されました。北条正宗は、鎌倉幕府8代執権北条時宗の三男とされています。
    正宗は北条氏一族の菩提を弔うため、曾祖父・北条時政の持仏堂を基にこの地に一宇を開創し、正宗の長子・宗仁がこれを修造して成福寺としたと伝えられています。本堂北側には北条氏一族の供養塔があります。 現在は蓮の名所として知られています。境内には、約230種 250鉢もの花蓮が栽培されていて、毎年6月中旬から8月初旬には見事に咲き揃います。中には2000年前の種から発芽した花や、栽培が難しいとされる黄色い花蓮などもあります。
  • 撫川
    関連人物 源頼朝
    営業時間
    定休日
    富士山西エリア 歴史・文化資源スタンプラリー対象
    (ナデカワ)
    富士の巻狩のおり、源頼朝が矢の根で地面を撫でたところ、その場所から清水が湧き出し、その水で大勢の武士が渇きをいやしたといいます。
    そこで、その川を撫川というようになったといわれています。
  • 安達藤九郎盛長の墓
    関連人物 安達盛長
    営業時間
    定休日
    中伊豆エリア スタンプラリー対象歴史・文化資源
    (アダチトウクロウモリナガノハカ)
    安達藤九郎盛長は、源頼朝が伊豆の流人となった頃から側近として仕えていた武将で、頼朝の死後、鎌倉二代将軍・源頼家の宿老として十三人の合議制の一人になり幕政に参画しましたが、翌年66歳で死去しています。
    妻は頼朝の乳母・比丘尼の娘・丹後の局、娘・亀御前は、頼朝の異母弟・源範頼の妻であったため、この地に墓があると言われています。
  • 蓮光寺
    関連人物 牧の方
    営業時間
    定休日
    北伊豆エリア 歴史・文化資源
    当地は北條時政の後妻、牧の方の一族である牧氏の館があった地と伝わっています。館の跡地に寺が建てられ、今の蓮光寺のもとになりました。
  • 加藤景廉一族の墓
    関連人物 加藤景廉
    営業時間
    定休日
    中伊豆エリア 歴史・文化資源
    (カトウカゲカドイチゾクノハカ)
    加藤景廉は、平安末期から鎌倉時代初期の武将です。藤原利仁の流れを汲む加藤景員の子で、元々は伊勢の国を本拠としていましたが、源頼朝が源氏旗揚げの際、兄の光員とともに伊豆に下り、狩野茂光(かのもちみつ)らの協力を得て土着勢力となりました。 治承4年(1180)に源頼朝が平氏打倒のため挙兵するといち早く参じて平氏の目代・山木兼隆を討ち取る大功を立てたと言われています。
    以後、鎌倉幕府創設に献身努力し、頼朝から遠州浅羽、美濃遠山、伊豆牧之郷等の所領を与えられ、岐阜県遠山地方の要衝岩村(恵那市岩村町)に城を築きました。後に嫡男の遠山景朝に城を譲り、牧之郷に帰ると、源平の合戦で亡くなった人達の精霊供養のため、読経三昧に明け暮れたと言われています。 承久3年(1221)の承久の乱において、宿老の一人として鎌倉に留まりましたが、8月3日に没しました。
  • 遠国島
    遠国島
    関連人物 源頼朝
    営業時間
    定休日
    南伊豆エリア 歴史・文化資源
    (オンゴクトウ)
    田牛の岳浦というところにある島で、干潮時には歩いて渉ことができる。源頼朝が訪れ遊んでいたといわれ、中央に遠国明神の宮祠がある。
  • 愛童将軍地蔵尊
    関連人物 源頼家
    営業時間
    定休日
    中伊豆エリア 歴史・文化資源
    (アイドウショウグンジゾウソン)
    修禅寺に幽閉されていた鎌倉二代将軍・源頼家が非業の死を遂げたことを知った地元の人々によって建てられた笠冠地蔵。 元は月見ヶ丘の中腹にありましたが、昭和36年に道路拡張工事で山の一部が削られたため、修善寺橋の西北のたもとに移されました。 幽閉されていたころの頼家は、修禅寺の山を下り、狩野川のほとりの月見ヶ丘にのぼって月を眺めてその憂さを晴らし、また里の子どもを集め共に遊びながら、鎌倉に残したわが息子・一幡に思いを馳せていたといいます。 23歳の若さで無残に暗殺されたことを知った里の人たちはとても悲しみ、浄財を集めて月見ヶ丘に地蔵を建立しました。 源頼家は、里の子ども達を大変かわいがった将軍であったので『愛童将軍地蔵』と呼ばれています。
  • 相生堂
    関連人物 源頼朝
    営業時間
    定休日
    南伊豆エリア スタンプラリー対象歴史・文化資源
    (アイオイドウ)
    平治の乱(平治元年(1159))の翌年、伊豆・蛭ケ島に流された源頼朝と、承安3年(1173)後白河法皇に京都・神護寺再興の寄進を強要した大罪により、伊豆・田方の奈古屋の毘沙門堂に配流の身となった文覚上人が、ひそかに会った相生堂跡が宮内地区にある。文覚上人はここで頼朝に平家討伐を説得し、しきりにその決意をうながしたといいます。

    頼朝と文覚上人は源氏再興について話し合ったことを記念して、ここにお堂を建てて観世音菩薩を安置し、2本の松を植えた。これがいわゆる「相生堂」であり、「相生の松」であります。建久3年(1192)平家と藤原氏を滅ぼして征夷大将軍となり、鎌倉に幕府を開いた頼朝は、文覚上人と会った日のことを忘れず、相生堂に対して寺領200石を寄進。また慶安元年(1648)には3代将軍徳川家光が、12石の朱印状をこのお堂に与えています。
    しかし明治維新後廃堂となり、やがていつの間にか朽ちはててしまい、「相生の松」も枯れてしまった。ただ、生鉄和尚が書いた「相生堂」の扁額や、源頼朝・文覚上人の木像は近くの円通寺に移され、今もそこに往時のなごりをとどめています。
  • 太鼓石(遠照寺)
    関連人物 源頼朝
    営業時間
    定休日
    富士山西エリア 歴史・文化資源スタンプラリー対象
    (タイコイシ(オンショウジ))
    ▼ 石碑より
    「1193(建久四)年、鎌倉幕府の富士の巻狩りの際滝近くに一夜の陣を敷いた。
    その夜辺りが静けさを取戻すと頼朝の耳に太鼓を叩くような音が聞こえてきた。
    不思議におもった頼朝はすぐさま郎党達に調べさせると夕刻人馬を潤した滝壺から奇妙な形をした石(富士山溶岩樹形)を発見した。
    この石が滝の水によって音を出していたのであった。
    その後この滝は「陣馬の滝」、石は「太鼓石」と呼ばれ言い継がれてきた。」
  • お鬢水
    お鬢水
    関連人物 源頼朝
    営業時間 24時間(駐車場8:30-16:30)
    定休日
    富士山西エリア スタンプラリー対象歴史・文化資源
    (オビンミズ)
    ▼お鬢水 看板より
    お鬢水は、鬢撫水(びんなでみず)とも呼ばれ、馬蹄状に広がる白糸の滝壁面のほぼ中央部で芝川本流が落下する部分の上部にある。湧水が溶岩の窪地にたたえられ池となったもので、その水は白糸の滝の一部として流れ落ちている。
    鎌倉時代、源頼朝が「富士の巻狩」のおり、ここに立ちより鏡のような水面に鬢のほつれを映し、撫でつけたと言い伝えられている。