
ストーリー STORY

静岡県では、大河ドラマ「鎌倉殿の13人」「どうする家康」(NHK)の放送を契機に
伊豆・富士山地域の歴史・文化資源を活用し、本地域への来訪や周遊促進、消費喚起に取り組んでいます。
静岡県伊豆・富士山地域には源頼朝と北条政子が深い信仰を寄せ、江戸時代には徳川将軍も崇拝した伊豆山神社や、
源頼朝が源氏再興を祈願した三嶋大社、北条氏ゆかりの願成就院、幕末に開港された伊豆下田港など、
武家社会の成立から終焉までに関する歴史・文化資源が多く存在しており、いわば「ぶし(武士)のくに」といえます。
このサイトの各ページでは、伊豆・富士山地域の歴史・文化資源の魅力を様々な形で紹介しています。
武士の世の始まり(前編)
【伊豆・富士山歴史絵巻①】
武士の世の始まり(後編)
【伊豆・富士山歴史絵巻②】
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エリア
本地域の歴史・文化資源を6つエリアに分けて紹介しており、動画で各エリアの魅力も見ることができますので、本ページ下にあるエリア地図からお気に入りのエリアを探してみてください
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施設一覧
本地域の歴史・文化資源を市町別やキーワード(例:源頼朝など)で検索することができます。
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周遊コース
本地域の歴史・文化資源だけでなくグルメや観光スポットなどを巡るモデルコースを掲載しておりますので、ぜひ旅の御参考にしてください。
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スタンプラリー
本地域の歴史・文化資源を巡る伊豆・富士山歴史絵巻WEBスタンプラリーの情報を掲載しておりますので、景品獲得を目指して、ぜひ御参加ください。
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拠点&アクセス
伊豆の国大河ドラマ館に隣接する観光案内所や本地域までの簡単なアクセス図を見ることができますので、旅の計画の御参考にしてください。
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推奨品
本地域にある北条義時をはじめとする中世の歴史や文化等の地域の魅力にゆかりのある土産品等の商品を紹介しております。
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リンク等
関係団体のホームページへのリンクや本地域の様々な取組の紹介や様式等を掲載しておりますので、多種多様な情報を入手することができます。
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お知らせ
イベント情報など数多くの情報を時系列順に見ることができますので、気になるイベントを見つけることが出来るかもしれません。
伊豆・富士山歴史絵巻の旅へ
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頼朝井戸の森
関連人物 源頼朝 営業時間 ー 定休日 ー 富士山東エリア 歴史・文化資源スタンプラリー対象(ヨリトモイドノモリ)
富士の巻狩りを富士山麓で行った際、頼朝がのどを潤すために杯で飲んだ湧き水だと伝えられてきたことから、その水源を包む荘厳な森を「頼朝井戸の森」と呼ぶようになりました。
▼頼朝の井戸 看板より
建久4年(1193)、将軍源頼朝公は、武威を天下に誇示し、且亦将兵の士気をも鼓舞せんものと、駿河国藍沢(御殿場地方)から富士野(上井出地方)に亘る広大な富士山の裾野で大規模な巻狩を催した。 -
間眠神社
関連人物 源頼朝 営業時間 ー 定休日 ー 北伊豆エリア 歴史・文化資源スタンプラリー対象(マドロミジンジャ)
▼間眠神社縁起 看板より
韮山蛭ヶ島に流された源頼朝が、治承4年源家再興の大願を立て、三島大明神に100日の丑刻祈願を行なった途上、路傍の祠の松の大樹の下でしばしまどろんだと伝えられている。
またこの祠は往古大洪水により韮山の長崎より流着した稲荷神社であったと古老の口碑に伝わっている。
祭神は豊受姫命である。後世、この松を頼朝公間眠の松といい、社を間眠稲荷または間眠宮と呼ぶようになった。
大七五三縄は毎年長崎から奉納される。 -
安達藤九郎盛長の墓
関連人物 安達盛長 営業時間 ー 定休日 ー 中伊豆エリア スタンプラリー対象歴史・文化資源(アダチトウクロウモリナガノハカ)
安達藤九郎盛長は、源頼朝が伊豆の流人となった頃から側近として仕えていた武将で、頼朝の死後、鎌倉二代将軍・源頼家の宿老として十三人の合議制の一人になり幕政に参画しましたが、翌年66歳で死去しています。
妻は頼朝の乳母・比丘尼の娘・丹後の局、娘・亀御前は、頼朝の異母弟・源範頼の妻であったため、この地に墓があると言われています。 -
宗徳院
関連人物 源頼朝 営業時間 ー 定休日 ー 北伊豆エリア 歴史・文化資源スタンプラリー対象(ソウトクイン)
頼朝が三嶋大社へ百日祈願に通う折この寺の地蔵菩薩にも祈願したと伝わる。門前の橋は頼朝の乗った馬が跪いてついたといわれる窪みがあったと言われるが、橋の架け替えや河川改修を経て今は残っておらず、駒爪の橋の名前だけが残る。橋を渡ると頼朝が足痛の祈願をしたという祠があり、寺には年代不詳ではあるが頼朝像が安置されている。 -
横割八幡宮
関連人物 源頼朝 営業時間 ー 定休日 ー 富士山西エリア 歴史・文化資源スタンプラリー対象(ヨコワリハチマングウ)
富士川の合戦のとき、頼朝が弓矢と馬を奉納し平氏追討の戦勝祈願をして成就したとの伝承から、村では霊験あらたかな神様を祀る神社として篤く信仰されました。 -
史跡北条氏邸跡(円成寺跡)
関連人物 北条時政,北条義時,北条政子 営業時間 9:00~17:00(公開時間)
QRコードの掲示場所は史跡の手前のため、いつでも読み取りはできます。定休日 ー 中伊豆エリア スタンプラリー対象歴史・文化資源(シセキホウジョウシテイアト(エンジョウジアト))
北条氏邸は鎌倉幕府の執権として活躍した北条氏の館があった場所です。北条氏邸跡が位置する守山は北条氏の本拠地で鎌倉時代に伊豆北條と呼ばれていました。守山の東側には氏寺である願成就院が建てられ、北西側の谷の内部には館が建てられました。平成4年(1992)から平成5年(1993)にかけて行った発掘調査では平安時代末から鎌倉時代はじめにかけての大量の出土遺物とともに建物跡が発見され、北条氏の館があることが確認されました。 弘元3年(1333)、鎌倉幕府の滅亡後、北条一族の妻や娘たちは鎌倉から韮山に戻りました。そして、一族の中の円成尼(えんじょうに)という女性が中心になって、館の跡に寺院を建て、北条氏の冥福を祈ったのが円成寺です。円成寺は室町時代にも尼寺として続き、江戸時代まで続いたことが分かっています。 北条氏邸跡は北条氏が鎌倉に本拠地を移すまでの館跡と北条氏滅亡後の円成寺跡が発見され、北条氏の興亡を物語る遺跡として国指定史跡に指定されました。 -
頼朝・政子の腰掛石(伊豆山神社内)
関連人物 源頼朝,北条政子 営業時間 ー 定休日 ー 東伊豆エリア 歴史・文化資源スタンプラリー対象(ヨリトモ・マサコノコシカケイシ(イズサンジンジャナイ))
▼頼朝・政子腰掛け石 看板より
伊豆の蛭が小島に配流されていた源頼朝は、伊豆山神社を崇敬していました。当時、頼朝と政子が恋を語らったのがこの境内であり、当社で二人の縁が結ばれ、伊豆山の神様の力により鎌倉に幕府を開き篤い崇敬を当社に寄せました。 -
文覚山円通寺
関連人物 文覚上人,源頼朝 営業時間 ー 定休日 ー 南伊豆エリア 歴史・文化資源スタンプラリー対象(モンカクサンエンツウジ)
(伝承記)その昔、妙智山・円通寺と称して、観音菩薩(弘法大師の作と伝えられる)を祀る、真言宗の小さな庵が宮内村にあったという。 貞治元年(1362)、鎌倉建長寺より東林友丘を請じ、船田帰一寺末として臨済宗に改宗、堂宇を那賀川沿い(伊那上神社前)に建立した。したがって東林友丘が開山となっている。 その後、安土桃山時代の終わりにかけた230年余りは、寺の衰微期間か、寺歴は全く不明である。慶長の頃、二世欽堂(慶長16年示寂)が出て衰微していた寺を再興している。 江戸時代三世遼天の代の慶安2年(1649)には、3代将軍家光より寺領12石の朱印状を受けた。 源頼朝と文覚上人の座像がある。 -
伊那上神社
関連人物 源頼朝 営業時間 ー 定休日 ー 南伊豆エリア スタンプラリー対象歴史・文化資源(イナカミジンジャ)
式内社で、創建は不詳とされているが、平安時代初期、弘仁2年(811)伊予国(愛媛県)越智郡三島より遷祀したといい、また一説に弘仁8年(817)国府三島より遷祀したとも伝えられています。 社名については文治元年(1185)文書に、伊豆国那賀郡三島宮、慶長5年彦坂九兵衛の神領付には「松崎上宮神領分」とあり、正徳2年(1712)の棟札に伊那上宮とある。寛政7年(1795)円通寺との山論(山林の境界の争い)の評定所裁決書には三嶋大明神とあります。 神職金指(差)氏は、豆州志稿によると伊予国河野氏の後裔で三島明神と共に当地に来たといわれています。 日本書紀の応神天皇の巻に、新羅王が造船の匠を日本に送ったことが記されており、古い伝えでは、当地にも帰化したこの猪名部が集落を営み、産土神として、伊那上、下社を祀ったという帰化人奉祀説があり、那賀川の上、下により区別され、伊那上は三島神社の系統へ移っていったと思われます。 平安時代、延喜7年(907)式内社に列し、伊那下神社とは相対的に存在した社であった。鎌倉時代、「承安3年(1173)源頼朝公参詣三島明神」と金指家過去帳にあり、のち頼朝より、社田寄進を受け、社殿宏壮で末社80有余、伊豆西海岸第一の宮であったといい、 本殿内の神像6躰(町指定文化財)は、鎌倉前期の作で、同中期の神鏡「松喰双鶴鏡」、「釣燈籠」は県文化財に指定されています。 -
御崎神社
関連人物 源頼朝 営業時間 ー 定休日 ー 富士山西エリア 歴史・文化資源(ミサキジンジャ)
▼御崎神社 看板より
当社を見志岐里明神と呼んでいたことからも推察されますように、大変見晴らしのよい高台にあったので、富士川の源平合戦の時には源氏方の陣屋となり、東比奈の諏訪神社と共に、頼朝公より幣帛を賜ったという伝承もありますので、当社の創建年代は、少なくとも合戦の行われた治承四年以前であろうと述べられています。
源氏軍が陣を置いたとされている。かつては物見の松という老木もありました。 -
源頼家の墓・源頼家公廟道(源氏公園内)
関連人物 源頼家 営業時間 ー 定休日 ー 中伊豆エリア 歴史・文化資源(ミナモトノヨリイエノハカ・ミナモトノヨリエコウビョウドウ(ゲンジコウエンナイ))
修禅寺と対面する鹿山(しかやま)のふもと源氏公園内の指月殿隣にあります。
正面に立っている石柱は元禄16年(1703)頼家500回忌の際に、時の修禅寺住職が建てた記念碑。
本当の墓は記念碑の奥にある小さなもので、三基あるうち真ん中が頼家、両側が側室の若狭の局(わかさのつぼね)とその子一幡(いちまん)のものといわれています。 -
久成寺
関連人物 藤原光親 営業時間 ー 定休日 ー 富士山東エリア 歴史・文化資源(クジョウジ)
久成寺は、日蓮宗に属し、興統法縁の寺院で嶋倉阿闍梨日済上人の開山です。 寺号は、法華経道場として寺が長く続くようにと願いを込めて「久成寺」の名称にしたと伝えられています。 御殿場市指定文化財である仏具の鰐口(わにぐち)や御霊宝類は、代々大切に保管されています。 境内の枝垂れ桜は、寛文12年(1672)に市内中町の中島常蔵が植えたといわれています。 本堂裏の墓地には「大御神(おおみか)さん」と呼ばれている五輪塔があり、これは承久3年(1221)の承久の乱で籠坂峠中腹で処刑された藤原光親卿を埋葬したと伝わる墓所です。 -
北条政子産湯の井戸
関連人物 北条政子 営業時間 ー 定休日 ー 中伊豆エリア 歴史・文化資源スタンプラリー対象(ホウジョウマサコウブユノイド)
源頼朝の妻・政子は北条時政の長女として保元2年(1157)、伊豆の国市に誕生しました。
その時に産湯の水をとったのが、この井戸と伝えられています。
守山北麓の一帯は北条氏の屋敷跡で、後に堀越御所が造られました。
この井戸の水は北条政子の伝承から、安産に霊験ありとして、近年まで妊婦に飲ませていました。
また、昭和33年(1958)の狩野川台風の時、この井戸は泥水に浸からなかったため、付近の住民の飲料水ともなりました。 -
八幡神社(哆胡神社)
関連人物 ー 営業時間 ー 定休日 ー 南伊豆エリア 歴史・文化資源(ハチマンジンジャ(タゴジンジャ))
源頼朝が旗揚げの際、京都岩清水八幡宮に拝礼し、八幡宮は武士の守護神となりました。出典:伊豆大辞典、伊豆の源氏等
▼?胡神社 看板より
「えびすさま、はちまんさまといわれ、千年前からおまつりされていた、三島明神(事代主神)は、始めは元宮に、後に飯盛山の地に、八幡社は、大田子山崎の地に鎮座され、明治14年(1881)12月、合併されて、現在地合ノ浦に神殿を造営鎮座された。
他に、神明社(天照大神)山神社(大山祇神)天神社(菅原道真命)天玉社(須佐之男命)稲荷社等おまつりしてある。」 -
鮎壺の滝
関連人物 源頼朝 営業時間 ー 定休日 ー 富士山東エリア スタンプラリー対象歴史・文化資源(アユツボノタキ)
沼津市と長泉町を隔てる狩野川水系の一級河川黄瀬川の中流にある鮎壺の滝は、黄瀬川の流れによって溶岩流の下にあった柔らかい土壌が先に侵食され、残された固い溶岩流により形成された高さ約10m、幅約90mの滝です。平成8年(1996)に県の天然記念物に指定されたほか、伊豆半島ジオパークのジオサイトの1つでもあります。「ぬまづの宝100」にも選ばれました。 「鮎壺」という地名は、ここで鮎が止められ滝壺に群れていたことに由来すると言われており、滝壺が藍のように青いので「藍壺の滝」、滝壺から富士山が見えるので「富士見の滝」とも呼ばれたそうです。 【亀鶴の伝説】 その昔、黄瀬川の里に小野政氏という長者がおりました。子供がないため里の観世音に夫婦で祈願をしたところ、霊験あらたかに婦人は懐胎し、玉のような女児をもうけ、鶴や亀のような長寿をと願い、亀鶴と名付けました。生まれつき容姿明眸に恵まれていましたが、幼くして両親を失い、悲哀の情に堪えず、日夜観音菩薩に詣で、読経や写経にひたすら父母の冥福を祈りましたが、18歳になるころ無常を感じて、この鮎壺の滝に身をに投じました。 一説には、源頼朝が富士の巻狩の際、亀鶴の美貌を聞き、招こうとしたが、亀鶴は応ぜず身を滝に投じたとも、黄瀬川宿の遊女であった亀鶴が、曾我兄弟の仇討ちの場から逃れて滝に身を投じたともいわれています。 -
相生堂
関連人物 源頼朝 営業時間 ー 定休日 ー 南伊豆エリア スタンプラリー対象歴史・文化資源(アイオイドウ)
平治の乱(平治元年(1159))の翌年、伊豆・蛭ケ島に流された源頼朝と、承安3年(1173)後白河法皇に京都・神護寺再興の寄進を強要した大罪により、伊豆・田方の奈古屋の毘沙門堂に配流の身となった文覚上人が、ひそかに会った相生堂跡が宮内地区にある。文覚上人はここで頼朝に平家討伐を説得し、しきりにその決意をうながしたといいます。
頼朝と文覚上人は源氏再興について話し合ったことを記念して、ここにお堂を建てて観世音菩薩を安置し、2本の松を植えた。これがいわゆる「相生堂」であり、「相生の松」であります。建久3年(1192)平家と藤原氏を滅ぼして征夷大将軍となり、鎌倉に幕府を開いた頼朝は、文覚上人と会った日のことを忘れず、相生堂に対して寺領200石を寄進。また慶安元年(1648)には3代将軍徳川家光が、12石の朱印状をこのお堂に与えています。
しかし明治維新後廃堂となり、やがていつの間にか朽ちはててしまい、「相生の松」も枯れてしまった。ただ、生鉄和尚が書いた「相生堂」の扁額や、源頼朝・文覚上人の木像は近くの円通寺に移され、今もそこに往時のなごりをとどめています。 -
カンコラ淵
関連人物 源頼朝 営業時間 ー 定休日 ー 富士山東エリア 歴史・文化資源(カンコラフチ)
黄瀬川に架かる横橋の上流側にある大きな淵です。
富士の巻狩で、武将の一人がうっかりこの淵に太刀を落としたので、水が少なく晴れた日には淵の底が黄金色に輝いたと伝えられています。 -
史跡天野遠景供養塔
関連人物 天野遠景 営業時間 ー 定休日 ー 中伊豆エリア 歴史・文化資源(シセキアマノトオカゲクヨウトウ)
天野遠景は、治承4年(1180)に伊豆国に流されていた源頼朝の挙兵に当初から参陣しています。石橋山の戦いで頼朝は大敗してしまいますが、椙山に逃れた頼朝を守るため、加藤景廉・佐々木高綱・堀親家らとともに奮戦したと言われています。
富士川の戦いでは、頼朝の挙兵に敵対した伊東祐親を捕縛しました。平家追討では源範頼に従軍。壇ノ浦の戦いを目前とした元暦2年(1185)3月11日には、西海(九州)において特に功があったとして、北条義時・小山朝政・小山宗政・中原親能・葛西清重・加藤景廉・工藤祐経・宇佐美祐茂・仁田忠常・比企朝宗・比企能員とともに頼朝から感状を受けています。
頼朝亡き後は、正治元年(1199)の梶原景時の追放に関わり、建仁3年(1203)の比企能員の変では仁田忠常とともに比企能員を暗殺したと言われています。没年は不明とされています。 -
日枝神社
関連人物 源頼朝 営業時間 ー 定休日 ー 北伊豆エリア 歴史・文化資源(ヒエジンジャ)
▼日枝神社 HPより
この地域は平安時代大岡庄と称され、関白藤原師通の領地でした。
嘉保2年(1095)、美濃守源義綱が延暦寺の僧、山王の神主を殺害する事件があり、関白藤原師通は延暦寺の訴えを拒絶した為、僧・神主に呪詛されて山王の祟りを受け38才で死亡しました。
師通の母は近江国の日吉大社の御神霊を分祀し八町八反の田を寄進して謝罪の礼を表されたのが起源です。時に、第73代 堀河天皇の時代、永長元年(1096)のことです。
神社に伝わる大釜は、源頼朝に縁のもので、建久4年(1193)の富士の巻狩りの際、炊飯用に使用されたものだといわれています。 -
虎御前の腰掛石
関連人物 源頼朝,曽我十郎祐成,曽我五郎時致 営業時間 ー 定休日 ー 富士山西エリア 歴史・文化資源(トラゴゼンノコシカケイシ)
曽我兄弟が仇討ちのために旅立った後、虎御前は兄弟の安否を心配して後を追った。虎御前がこの地に差し掛かった時に兄弟の絶命を知り、その場で泣き崩れて岩に腰掛けたという。その石が、虎御前の腰掛石として知られている。 -
加藤景廉一族の墓
関連人物 加藤景廉 営業時間 ー 定休日 ー 中伊豆エリア 歴史・文化資源(カトウカゲカドイチゾクノハカ)
加藤景廉は、平安末期から鎌倉時代初期の武将です。藤原利仁の流れを汲む加藤景員の子で、元々は伊勢の国を本拠としていましたが、源頼朝が源氏旗揚げの際、兄の光員とともに伊豆に下り、狩野茂光(かのもちみつ)らの協力を得て土着勢力となりました。 治承4年(1180)に源頼朝が平氏打倒のため挙兵するといち早く参じて平氏の目代・山木兼隆を討ち取る大功を立てたと言われています。
以後、鎌倉幕府創設に献身努力し、頼朝から遠州浅羽、美濃遠山、伊豆牧之郷等の所領を与えられ、岐阜県遠山地方の要衝岩村(恵那市岩村町)に城を築きました。後に嫡男の遠山景朝に城を譲り、牧之郷に帰ると、源平の合戦で亡くなった人達の精霊供養のため、読経三昧に明け暮れたと言われています。 承久3年(1221)の承久の乱において、宿老の一人として鎌倉に留まりましたが、8月3日に没しました。