STORY

~『ぶし(武士)のくに』から『ふじ(富士)のくに』へ~

静岡県では、大河ドラマ「鎌倉殿の13人」「どうする家康」(NHK)の放送を契機に
伊豆・富士山地域の歴史・文化資源を活用し、本地域への来訪や周遊促進、消費喚起に取り組んでいます。

静岡県伊豆・富士山地域には源頼朝と北条政子が深い信仰を寄せ、江戸時代には徳川将軍も崇拝した伊豆山神社や、
源頼朝が源氏再興を祈願した三嶋大社、北条氏ゆかりの願成就院、幕末に開港された伊豆下田港など、
武家社会の成立から終焉までに関する歴史・文化資源が多く存在しており、いわば「ぶし(武士)のくに」といえます。

このサイトの各ページでは、伊豆・富士山地域の歴史・文化資源の魅力を様々な形で紹介しています。

武士の世の始まり(前編)
【伊豆・富士山歴史絵巻①】

武士の世の始まり(後編)
【伊豆・富士山歴史絵巻②】

北条政子
源頼家
源頼朝
北条時政
北条義時
和田義盛
比企能員
梶原景時
仁田忠常
八重姫
安達盛長
北条宗時
伊東祐親
大江広元
阿野全成
三浦義澄
中原親能
足立遠元
三善康信
八田知家
二階堂行政

伊豆・富士山歴史絵巻の旅へ

  • 旧植松家住宅
    関連人物 源頼朝
    営業時間 8:30~16:00(裾野市中央公園の開園時間)
    定休日 12月29日~1月3日(裾野市中央公園の休園日)
    富士山東エリア スタンプラリー対象歴史・文化資源
    (キュウウエマツケジュウタク)
    源頼朝が富士の巻狩りをした際に、尾張国津島(現愛知県津島市)より移住したと言われる植松氏の子孫が住んだ住宅。
    国指定重要文化財。
    建物自体はもともと裾野市石脇に建っていましたが、調査・保存のため現在地に移築されました。建築手法から江戸時代(18世紀より前)の豪農(農家の名主)の家の構造を維持しているといわれています。また、静岡県東部地域の古民家のなかでも保存状態が良く貴重な建物です。
    見どころ
    ・家を支える太い大黒柱と中柱・曲がりくねった梁
    ・職人技によって葺かれた茅葺(かやぶき)屋根など
  • 北条宗時の墓
    北条宗時の墓
    関連人物 北条宗時,狩野茂光
    営業時間
    定休日
    北伊豆エリア 歴史・文化資源
    (ホウジョウムネトキノハカ)
    北条宗時は、北条時政の嫡男で北条政子の兄です。 治承4年(1180)8月17日、源氏再興の挙兵をした源頼朝に従いますが、頼朝軍は山木兼隆を討った後、8月24日、相模国の石橋山で大庭景親軍に大敗し、頼朝は山中へ逃れました。 『吾妻鏡』によれば、北条時政と宗時、義時の父子は頼朝と別行動をとり、時政と義時は箱根の湯坂道を経て甲斐国へ向かおうとし、宗時は土肥(現湯河原町)から桑原を経て平井郷へ向かおうとしました。しかし、早河の辺で伊東祐親の軍に包囲され小平井久重に討ち取られたのだといいます。のちに時政がこの地に宗時を祀ったものと伝えられています。 大小二基の塔のうち、大きい方が北条宗時、小さい方が狩野(工藤)茂光の墓と言われています。 『吾妻鏡』によれば、建仁2年(1202)、北条時政は夢のお告げによって伊豆国へ下向し、宗時の追善供養を行っています。
  • 在庁道(頼朝道)
    関連人物 源頼朝
    営業時間
    定休日
    北伊豆エリア 歴史・文化資源
    (ザイチョウドウ(ライチョウドウ))
    三嶋大社の例祭には必ず参拝すると誓った源頼朝が、鎌倉から離れているために、安久にいる7人の農民に命じて交代で代参させたと伝えられています。彼らは「在庁」または「頼朝(らいちょう)」と呼ばれ、頼朝と同じ征夷大将軍の装束で代参していたといいます。
    この時に使われていた安久から青木に北上し間眠神社横に向かう道は、「在庁道」または「頼朝道」と呼ばれ、この風習は明治時代まで行われていました。
  • 沓間神明宮
    関連人物 源頼朝
    営業時間
    定休日
    富士山東エリア 歴史・文化資源
    (クツマシンメイグウ)
    沓間の神明宮周辺は、御殿場地方の名称「御厨」(みくりや)の中心となった地域とされ、このあたりを中心として、伊勢神宮に寄進された荘園「大沼鮎沢御厨」がありました。御厨には必ず神明宮が勧請されています。
    社宝として、大江山の鬼退治で有名な源頼光(金太郎として知られる坂田公時は頼光四天王の1人)奉納の鏡があり、寛和2年(986)と刻まれています。 沓間(くつま)という地名は建久4年(1193)に源頼朝が富士の巻狩をした時、神明宮で蹴鞠をした際に沓(靴)を社前に置いたという伝承からきているといわれています。
  • 東林寺
    東林寺
    関連人物 伊東祐親,河津三郎祐泰
    営業時間
    定休日
    東伊豆エリア 歴史・文化資源スタンプラリー対象
    (トウリンジ)
    曹洞宗、ご本尊は地獄菩薩、弥陀三尊(平安末期作)であり、今から約850年前伊東祐親入道をして嫡子河津三郎祐泰の菩提を弔った伊東家の菩提寺があります。
    また、河津三郎の墓、曽我兄弟の供養五輪塔、相撲協会による父子の追悼碑もあります。
    江戸時代には、末裔である飫肥藩伊東市が江戸との参勤交代時に東林寺に送った書状が残されている。
    ※参考『図説伊東の歴史』など
  • 法華寺
    関連人物 源頼朝
    営業時間
    定休日
    北伊豆エリア 歴史・文化資源スタンプラリー対象
    (ホッケジ)
    本堂前に頼朝が腰かけたと伝わる腰かけ石があり、かつては、頼朝が衣をかけたといわれる「衣かけの松」もありました。
  • 蛭ケ島
    関連人物 源頼朝,北条政子
    営業時間
    定休日
    中伊豆エリア 歴史・文化資源スタンプラリー対象
    (ヒルガシマ)
    平治の乱に敗れた源頼朝は、平清盛の継母・池禅尼の命乞いによって伊豆の蛭ヶ島に配流されました。
    永暦元年(1160)2月の14歳から、治承4年(1180)8月に旗挙げする34歳までの20年間をこの地で過ごしたといわれています。流人とはいえ、その監視は比較的ゆるやかであったといわれており、伊東祐親の娘・八重姫との恋、北条政子との結婚のほか、箱根・伊豆山・三嶋の三社詣、天城山での巻狩りなどの伝承も残されています。当時の蛭ヶ島は洪水の度に田方平野を縦横に流れていたであろう狩野川の中洲、あるいは湿田の中の微高地(田島)であったと考えられます。 江戸時代の末に伊豆の地誌「豆州志稿」を著わした秋山富南が、頼朝配流の地と考証したことを記念する「蛭島碑記」(市指定文化財)が立っています。
    周辺は公園として整備され、頼朝と政子が富士に向って立つブロンズ像「蛭ケ島の夫婦(ふたり)」が建てられました。
  • 呼子坂
    呼子坂
    関連人物 源頼朝
    営業時間
    定休日
    富士山西エリア 歴史・文化資源
    (ヨビコザカ)
    ▼史跡 呼子坂 看板より
    治承4年(1180)富士川の合戦に際し、源頼朝率いる源氏の軍勢がこの付近の高台一帯に陣を敷き、ここで呼子を吹いて軍勢を集めたことからこの呼び名が付けられたと伝えられています。
  • 史跡天野遠景供養塔
    史跡天野遠景供養塔
    関連人物 天野遠景
    営業時間
    定休日
    中伊豆エリア 歴史・文化資源
    (シセキアマノトオカゲクヨウトウ)
    天野遠景は、治承4年(1180)に伊豆国に流されていた源頼朝の挙兵に当初から参陣しています。石橋山の戦いで頼朝は大敗してしまいますが、椙山に逃れた頼朝を守るため、加藤景廉・佐々木高綱・堀親家らとともに奮戦したと言われています。
    富士川の戦いでは、頼朝の挙兵に敵対した伊東祐親を捕縛しました。平家追討では源範頼に従軍。壇ノ浦の戦いを目前とした元暦2年(1185)3月11日には、西海(九州)において特に功があったとして、北条義時・小山朝政・小山宗政・中原親能・葛西清重・加藤景廉・工藤祐経・宇佐美祐茂・仁田忠常・比企朝宗・比企能員とともに頼朝から感状を受けています。
    頼朝亡き後は、正治元年(1199)の梶原景時の追放に関わり、建仁3年(1203)の比企能員の変では仁田忠常とともに比企能員を暗殺したと言われています。没年は不明とされています。
  • 吉佐美八幡神社
    吉佐美八幡神社
    関連人物 源頼朝,菖蒲前
    営業時間
    定休日
    南伊豆エリア 歴史・文化資源
    (キサミハチマンジンジャ)
    伊豆の国司であった頼政公とその妻菖蒲前の碑があります。相殿三島神社は式内竹麻神社の一座に比定されています。神社境内のイスノキは国の天然記念物です。
  • 光り石
    関連人物
    営業時間
    定休日
    東伊豆エリア 歴史・文化資源スタンプラリー対象
    (ヒカリイシ)
    ▼光り石 看板より
    走り湯縁起と吾妻鏡の大磯高麗山(高来神社)より、道祖神(猿田彦大神、天宇受売命)とともに来た神様の降り立つ光り石です。神様の愛を受けて、良きことがありますように、光のパワーを沢山賜って光り石に触ったり、座ったりして楽しくお参りしてください。

    ※石そのものは、戦後に設置されたと言われています。
  • 源頼家家臣十三士の墓(源氏公園内)
    源頼家家臣十三士の墓(源氏公園内)
    関連人物 源頼家
    営業時間
    定休日
    中伊豆エリア 歴史・文化資源
    (ミナモトノヨリイエカシンジュウサンシノハカ(ゲンジコウエンナイ))
    頼家の家臣であった十三士の墓です。
    鎌倉時代の歴史書である「吾妻鏡」によると、頼家公が暗殺された6日後の7月24日に、主君の無念を晴らすべく謀反を企てましたが、事前に事が発覚してしまい、後に侍所の所司にもなった金窪行親(かなくぼゆきちか)らの手により討ち取られたと言われています。
  • 太鼓石(遠照寺)
    関連人物 源頼朝
    営業時間
    定休日
    富士山西エリア 歴史・文化資源スタンプラリー対象
    (タイコイシ(オンショウジ))
    ▼ 石碑より
    「1193(建久四)年、鎌倉幕府の富士の巻狩りの際滝近くに一夜の陣を敷いた。
    その夜辺りが静けさを取戻すと頼朝の耳に太鼓を叩くような音が聞こえてきた。
    不思議におもった頼朝はすぐさま郎党達に調べさせると夕刻人馬を潤した滝壺から奇妙な形をした石(富士山溶岩樹形)を発見した。
    この石が滝の水によって音を出していたのであった。
    その後この滝は「陣馬の滝」、石は「太鼓石」と呼ばれ言い継がれてきた。」
  • 湯前神社
    関連人物
    営業時間
    定休日
    東伊豆エリア スタンプラリー対象歴史・文化資源
    (ユゼンジンジャ)
    「病を除く効果がある温泉がある」と神様からのお告げがあり、祠を立てて神を祀ったのが始まりの神社で、熱海の温泉を守っています。熱海の温泉に感謝し、泉脈が絶えないようにと、毎年春と秋に例大祭が開催されています。 社には奉納した旅館の名前がずらりと刻まれていて、今なき旅館名も連なり、近代温泉旅館の歴史を感じることができます。神社前には熱海温泉の源泉とされる大湯が湧き、「日航亭大湯」では、この源泉の湯で日帰り入浴を楽しむこともできます。
  • 頼朝井戸の森
    頼朝井戸の森
    関連人物 源頼朝
    営業時間
    定休日
    富士山東エリア 歴史・文化資源スタンプラリー対象
    (ヨリトモイドノモリ)
    富士の巻狩りを富士山麓で行った際、頼朝がのどを潤すために杯で飲んだ湧き水だと伝えられてきたことから、その水源を包む荘厳な森を「頼朝井戸の森」と呼ぶようになりました。

    ▼頼朝の井戸 看板より
    建久4年(1193)、将軍源頼朝公は、武威を天下に誇示し、且亦将兵の士気をも鼓舞せんものと、駿河国藍沢(御殿場地方)から富士野(上井出地方)に亘る広大な富士山の裾野で大規模な巻狩を催した。
  • 撫川
    関連人物 源頼朝
    営業時間
    定休日
    富士山西エリア 歴史・文化資源スタンプラリー対象
    (ナデカワ)
    富士の巻狩のおり、源頼朝が矢の根で地面を撫でたところ、その場所から清水が湧き出し、その水で大勢の武士が渇きをいやしたといいます。
    そこで、その川を撫川というようになったといわれています。
  • 河津八幡神社
    河津八幡神社
    関連人物 曽我十郎祐成,曽我五郎時政
    営業時間 9:00~17:00
    定休日
    南伊豆エリア スタンプラリー対象歴史・文化資源
    (カワヅハチマンジンジャ)
    この地は河津三郎祐泰の館跡と言われています。
    河津の地を領した河津三郎祐泰とその子曽我十郎祐成、五郎時致の霊を八幡神社に合祀しています。

    鳥居脇には剛力で知られた祐泰が鍛錬に使った手玉石が残っています。
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    桃山坂
    関連人物 源頼朝,北条時政,北条政子
    営業時間
    定休日
    東伊豆エリア 歴史・文化資源
    (モモヤマザカ)
    桃山坂は、熱海駅の裏から熱海中学校まで続く坂。 北条時政が、北条政子を取り戻そうとした時、伊豆山の僧兵が「百坂(モモサカ)」を塞いで抵抗したことが『曾我物語』に記述され、現在も坂道愛称碑「桃山坂」が設置されています。
  • 相生堂
    関連人物 源頼朝
    営業時間
    定休日
    南伊豆エリア スタンプラリー対象歴史・文化資源
    (アイオイドウ)
    平治の乱(平治元年(1159))の翌年、伊豆・蛭ケ島に流された源頼朝と、承安3年(1173)後白河法皇に京都・神護寺再興の寄進を強要した大罪により、伊豆・田方の奈古屋の毘沙門堂に配流の身となった文覚上人が、ひそかに会った相生堂跡が宮内地区にある。文覚上人はここで頼朝に平家討伐を説得し、しきりにその決意をうながしたといいます。

    頼朝と文覚上人は源氏再興について話し合ったことを記念して、ここにお堂を建てて観世音菩薩を安置し、2本の松を植えた。これがいわゆる「相生堂」であり、「相生の松」であります。建久3年(1192)平家と藤原氏を滅ぼして征夷大将軍となり、鎌倉に幕府を開いた頼朝は、文覚上人と会った日のことを忘れず、相生堂に対して寺領200石を寄進。また慶安元年(1648)には3代将軍徳川家光が、12石の朱印状をこのお堂に与えています。
    しかし明治維新後廃堂となり、やがていつの間にか朽ちはててしまい、「相生の松」も枯れてしまった。ただ、生鉄和尚が書いた「相生堂」の扁額や、源頼朝・文覚上人の木像は近くの円通寺に移され、今もそこに往時のなごりをとどめています。
  • 心経寺
    関連人物 源頼朝
    営業時間
    定休日
    北伊豆エリア スタンプラリー対象歴史・文化資源
    (シンギョウジ)
    創建年代等は不詳だが、法相宗の寺であったものを頼朝の命によって真言宗に改め、寺号も神鏡寺と称するようになったと伝わる。応永22年(1415)に臨済宗に改宋し、寺号も心経寺に改め現在に至る。永禄12年(1569)の北条氏と武田氏の戦いの際には北条氏の本陣が置かれた。門前の道は三島八小路のひとつである上小路。
  • 曽我八幡宮
    曽我八幡宮
    関連人物 曽我十郎祐成,曽我五郎時致
    営業時間
    定休日
    富士山西エリア 歴史・文化資源スタンプラリー対象
    (ソガハチマングウ)
    この神社には、応神天皇と曽我兄弟が祀られています。
    神社が所蔵している「曽我八幡宮略縁起」には、建久8年(1197)、曽我兄弟の親の仇討ちの意志に感心した源頼朝が家臣の岡部泰綱に命じて建てたといわれています。
     天文年間(1532~1555)に武田、今川、北条の三氏の戦場になったため神社は焼けてしまいました。江戸時代になり、慶長14年(1609)に、関東代官の伊奈備前守忠次が検地のため、この地に来た時に、神社は再建されたとされています。その後、天保2年(1831)雨宮守弘が社殿を現在地に移しました。
     この神社には、奉納された曽我兄弟の絵馬や「曽我八幡宮略縁起」の版木が残されています。(現在は富士山かぐや姫ミュージアムに寄託)
     また、雁をみて父を思う幼い兄弟像が境内にあります。